●馬鹿ほど愛しい
「……おい、こっち向けよ。」
俺は新しく俺の手持ちになった、リザードンのオチビに声を掛けた。奴はこちらに背中を向けたまま動かない。納屋に急ごしらえした寝床の中に座り込んでいる。
「こっち向けっての。エサやんねぇぞ」
奴の後ろに立ちポケモンフードの入った缶をカラカラと振れば、奴はピクリと反応する。今まで微動だにしなかった尻尾がゆらゆらと揺れた。何と声をかけても反応しなかったくせにゲンキンな奴だ。
「おいオチビ、マトマの実もあるぞ。お前コレ好きだろ?」
奴の好物をツナギのポケットから出せば、スンスンと空気の匂いを嗅ぐ音がする。奴の喉の奥から物欲しげなキュウゥという声が漏れる。なかなか揺らいでいる様だが、それでもまだ振り向かない。
諦めてこちらから奴の前に出ようかとも思ったが、何だか負けた気がするのでそんな事はしてやらない。
「なぁオチビ、俺んちのマトマ好きだろ? こっち向けってば」
オチビが本当に小さかった頃、コイツは遊びに来るたびに俺の家の畑のマトマを食べていた。小さなポケモンのすることだと、両親はオチビを叱ることはなかった。でも俺はよく、盗み食いするなと怒っていたっけ。それから何年も経った今、奴の食費を浮かすには相当量のマトマを畑に植えなくてはいけないだろう……後で、今年の作付予定を考え直さなくては。
まぁとにかく今は奴のエサやりだ。ポケモンと人間の信頼関係は食事とバトルから、ってね。あぁ、トレーナーズスクールに通ってた頃が懐かしい。
「……おいオチビ、いい加減食え」
今のオチビは平均的な同じ種類のポケモンと比べて、痩せている気がする。というか、やつれたのだろう。
『オチビ、あんましワガママならガオーのお兄ちゃんに怒ってもらう?』
耳に懐かしい台詞を吐けば、勢いよく奴は振り向いた。赤い瞳がギラリと輝く。グルルと威嚇の声を上げるオチビ。尾先にある炎が火力を上げた。
「やっとこっち向いたか。ほんと、いい加減にしろよなー。ほれっ」
鋭い牙をむき出して開かれた口に、俺は臆することなくマトマをポイと放り込んだ。奴は反射的に口を閉じて咀しゃくする。赤い目から攻撃性が消えてゆく。
作戦成功。どんなに機嫌が悪くても、うまいもんはうまい。
「うまいか?お前、昔っから俺んちのマトマ好きだよなぁ。ほら、もう一個。」
俺に向かって唸り声を上げた事なんてまるで気にしていないような口調で声をかけ、もう一つマトマを口へ放り込んだ。腹が減っていたのか、あっという間に平らげる。そこへ奴の目の前に素早く、用意しておいた山盛りポケモンフードをドンと置いた。刻んだマトマをかけた、俺特製猫まんま風ポケモンフードだ。
「何はともあれ、まずは食え!」
ようやっと作戦にハマった事に気づいたのか、奴は悔しそうにこちらを一瞥した。それでも、ガツガツと食べ始める。
―――本当は、マトマのポフィンでもやりたい所なんだがなぁ。
豪快な食べっぷりを見ながら、小さくため息を一つ。残念ながら俺は料理上手とは言い難い。俺は昔っから、色々と不器用な男なのである。
オチビの以前のトレーナーは俺の幼なじみで、この辺鄙な田舎から世界へと羽ばたいた数少ないポケモントレーナーだ。その彼女の初めてのポケモンが、このオチビ。俺たちがトレーナーズスクール初等科を卒業した日に貰った。
オレンジ色が通常のヒトカゲの体色だが、オチビは赤味の薄い黄色の身体をしていた。身体も弱く、いわゆる色素異常の個体だった。ポケモンセンターで新米トレーナーの為に用意されたポケモンたちの中でもコイツは一際小さく弱弱しかった。もちろん、誰もコイツを選ばなかった。色素異常の個体は一部のマニアに喜ばれる。だが、新米トレーナーにとっては性格や強さが大切だ。相棒が病気がちでは冒険もままならない。俺もオチビを選ばずに、隣の健康そうなフシギダネを選んだ。ところが彼女はこのオチビが気に入ったと言い、周りが止めるのも聞かずにコイツを選んだ。
どうにも病弱なオチビのトレーナーとなった彼女は、すぐに冒険へ出る予定だったのを遅らせた。オチビはひ弱なんじゃなくて、まだ準備ができていないだけだと言って。俺は元から冒険へ行く予定は無く、隣町にある農業の学校へ通い始めた。俺は長男だから家を継ぐ。親に言われたことは無かったが、それが当たり前だと思っていたから。
それから一年、すり傷だらけになって森から帰ってくる彼女とオチビ、脳みそと筋肉をフル活用してへとへとになって町から帰ってくる俺、毎日のように鉢合わせて一緒に帰っていた。隣町への通学時間は一時間近く、その為帰りは遅かった。それなのに不思議なくらい一緒に帰っていた。今思えばあれは……いや、もう意味の無い事だ。
初めてポケモンを貰ってからきっかり一年後に彼女は冒険へ旅立った。その時は誰も、オチビがこんなに立派になるとは思っていなかった。
旅立ってから四年後に彼女が帰って来た日は、鮮明に覚えている。良く晴れた秋空から赤い翼の黒龍が舞い降りてきて、その背に乗っているのは確かに彼女だった。髪が伸び、背も伸び、元々凛々しかった顔に優しさも備えていた。そして低く轟く猛々しい声を上げる黒龍は、よく見れば確かにリザードン。赤い瞳のそいつは、俺のフシギダネに一度だって勝てなかったあのオチビだった。
帰って来た彼女は名のあるポケモントレーナーとなっていた。恐ろしく強くなっていて、オチビ以外の手持ちにも俺のフシギバナは全く歯が立たない。彼女はこれから数年ジムトレーナーを経験し、ジムリーダーになる為の試験を受ける予定だと言っていた。勉強をして炎タイプのスペシャリストになりたいと。彼女は輝いていた。
『色んな所に行ったけど、オチビはお兄ちゃんちのマトマが一番好きよ。私もお兄ちゃんちの野菜が一番好き。どこに行っても、これを食べに戻ってきたくなるの。』
彼女のその言葉が、俺は忘れられない。少女から女性になりかけていた彼女の、伸びやかな後姿と一緒に。
気づいたら、オレは眠っていたようだ。そういえば最近ろくに眠っていなかった。食事も久しぶりだった。
とてもうまい飯だった。何年ぶりだろう。とても懐かしい味がした。前にあれを食べたのはいつだったろうかと考えたら、喉の奥がツンとなった。だからオレはそれを考えるのはやめて、辺りを見回した。
辺りはすっかり暗くなっていた。電源の場所が分からないので、明かりは点けられない。尾の明かりだけが頼りだ。丸めていた身体を起こして、暗闇の中でうーんと伸びをする。そうしたら、床のほうからむにゃむにゃと声がした。
「んぅー……」
尾を向けてみれば、納屋の床にはアイツが眠りこけていた。先程のうまい飯を作ったアイツ。
『ガオーのお兄ちゃん』。子どもじみた呼び名だ。オレは昔、コイツによく叱られていた。コイツは本気で怒ると、まるで俺たちのようにガオーと叫んだ。まさに『ほえる』だ。震え上がったオレは一目散に主人の足元へ駆け寄ったものだ。そうすると主人は笑いながらオレを抱き上げて、『オチビ、また怒られたの?』とオレを抱きしめる。それから、『でも勝手にお兄ちゃんちのものを食べたらいけないよ。良い子にしてればお兄ちゃんが分けてくれるからね。』と言ってオレを諭す。
あったかくて優しい主人。凛々しくてしなやかで、強かった。毎日一緒で、風邪をひいた夜は一晩中看病してくれて。実は結構肌が弱いのに、喉を傷めたオレが食べやすいようにマトマの実を素手で絞ったりして。ゴム手袋を使えばいいのに……馬鹿な人。
そうだ、あの人は馬鹿な人だった。オレなんてひ弱なちびだったのにオレを選んで。それから先も炎タイプばかり仲間にして。そのせいで、同世代のトレーナーにどんどん先を越されて。ライバルたちから随分遅れて挑戦に来た俺たちを、ジムリーダーは皆口をそろえて褒めた。それでも、バトルで容赦はしなかった。あの人はそれを楽しんでいた。オレはボロボロになってもあの人と一緒に戦っていた。
あぁ馬鹿な人だった。
馬鹿で、素晴らしい人だった。
ずっと一緒だと思っていた。それなのにどうしてあの人は、なんて。理由なんてどうでも良い。悲しい。オレはただ悲しい。
狭い納屋で、黒い翼を広げた。こんなに逞しくなったのに。誰もが羨む美しい姿だとあの人も褒めてくれたのに。
堪らなくなって、オォーンと吠えた。目にゴミが入った時にこぼれるものが、痛くも無い目からこぼれた。
鼻水で詰まった鼻に、微かに懐かしい匂いがした。鼻先に赤い果実が押し付けられた。
「どんなときでも、うまいもんはうまい」
アイツも目から塩辛いものをこぼしていた。
「あいつはもう俺んちの野菜を食べに戻ってこれない。それでも、時がくればこうして実る」
鼻の奥にびりびりくる辛い匂い。太陽をたっぷり浴びた、健康的な匂い。
「そんでもって、これは昔と変わらずうまい。というか今のほうがうまい。俺が頑張ってっからな」
知らねぇよ、オマエがどんだけ頑張ってたかなんてオレは知らない。オマエのほうを何度も振り返るあの人と一緒に、ここを旅立ってからずっと。ずっと知らない。知っているのは、お兄ちゃんは元気かなぁとオレに話しかけるあの人の事だけ。
でもオレはコイツと同じ言葉を持たない。だからガォーと小さく鳴いた。
「俺たちゃ、似たもの同士だ。分かるか?」
分かんねぇよ。
「俺もお前も、あいつが大好きだった。でも、もう。」
そう。でも、もう。
「それでも、明日は来る。時間は進む。畑は待ってくれねぇ。」
あぁ、そうか。分かった。
「分かったか?」
俺ぁ不器用だからな、上手く説明できねぇや。そう言って苦笑いを見せた。悲しいのは無くならなかったが、オレは一つ理解した。コイツも馬鹿だ。絶対あの人より素晴らしい主人などいないと決め込んでいるオレを引き取ったのだから。馬鹿だ。ジムバッジも持っていないのに。
オレはこれから、どこかしらにいつだって悲しいという気持ちがあると思う。思い出して動けない時もあるだろう。
それでも、コイツのマトマはうまいのだ。辛くて、うまい。
「なぁ、たまに俺を乗せて飛んでくれよ。あいつはどんな景色を見ていたんだ?あいつとどんな旅をした?」
オレの口にマトマを放り込んでから、そう訊いてきた。夜が明けたらコイツを乗せて飛ぼう。少し遠出して、あの人の恩師がいる火山島まで行こう。きっと禿げ頭を撫でながら笑顔で出迎えてくれるはずだ。これからはそうやって、あの人の話ができる人間にコイツをどんどん合わせるのだ。
畑が暇な時にしてやろう。だが決定権はオレにある。言う事なんて聞くかよ。
なんたって、オレは馬鹿だからな。
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