●ネコイタチと青い空
俺はポケモンがほしかった。一人称が僕から俺に変わっても、それは変わらなかった。あんまり体が強くなかったことと親がほんのちょっと心配性だったこととが重なり、俺は10歳になっても15歳になってもポケモンをもらえずにいた。同い年くらいの子がポケモンを連れているのが、羨ましくて羨ましくてしょうがなかった。だが俺は今、待ちに待った旅へのチャンスを与えられている。ここ一年は体調に気を遣うこともなく、安定した生活を送れていたことで、ようやく親の許しが出たのだ。
俺の住むハジツゲは、火山灰の降る113番道路と流星の滝に続く114番道路に挟まれている小さな村だ。正しく言えば農村だが、それは特に有名ではないので省略。村民はお互いに全員顔見知りだし、夕餉時に醤油を貸してくれるくらいには繋がりがある。俺の家の隣に住むケン君が旅に出たときも、それこそエネコの額ほどしかないハジツゲは大いに賑った。俺より7歳も年下の彼が旅立ったのは、もう2年前のことだが。
いつかエアームドに乗って、遠くの見知らぬ街へ行くのが子どもの頃からの夢だった。本には、鋼ポケモンや飛行ポケモンは初心者向きじゃないとか、最初はもっと扱いの簡単なポケモンを選ぶべきとか、そんな消極的な意見ばかりが並んでいたが、俺は気にしなかった――気にしたくなかった。113番道路にはエアームド目当てのトレーナーたちも来ていたし、ポケモンを捕まえるならエアームド、というのが俺の中にあったのだ。
しかし、俺はこの前偶然にも、エアームドに乗って颯爽と流星の滝へ向かうひとりの男を発見した。それがホウエンリーグチャンピオンのツワブキダイゴと知るのには、そう時間はかからなかった。チャンピオンは忙しい、だがその合間を縫って滝へ通うダイゴさんに、思い切って「どうしたらポケモンと旅ができるか」を相談した。周りでそれを聞ける人はいないし、どうせならジムリーダーやそれ以上の人に聞いてみたいと思ったのだ。正直、内心は冷や汗ものだった。彼は今、オフだ。彼的には見ず知らずの相談事より、プライベートが先だろう。しかしダイゴさんは優しく、親身になって俺の話を聞いてくれた。俺の鋼ポケモン好きが彼の好感を呼んだのか、発掘そっちのけで話し込む日もあった。
「ダイゴさん」
「ああ、ルイ君」
そして出た結末が、今日になる。俺の夢を悠々と叶えているダイゴさんは、やっぱり尊敬に値する人だった。
「持ってきたかい?」
「はい、持ってきました。ちゃんと日にちも表示されるやつです」
「あ、これは良い時計だね」
彼が必要だと言ったのは「時計」だった。今は彼の指示通りリセットされ、1月1日の0:00になっている。これをどう使うのかはまだ知らされていないが、何だか旅へと一歩一歩近づいている気がして嬉しくなった。本当の時間としてはまだ早朝。見渡す限り人の姿はない。しかしダイゴさんはポケモンセンターやフレンドリーショップを通過して、113番道路へと足を踏み入れた。俺も迷わずその後ろを追う。
「エアームドがいいんだよね?」
「はい、そうです。やっぱり鋼かな、って」
「そうだよね。ルイ君は分かってるなあ」
「ありがとうございます」
ダイゴさんは灰をかぶった草むらを余裕の表情でかき分けている。俺も冗談めかしてはいるが、草むらは怖い。びくびくしながらがさがさと落ちる灰を見つめていると、急に何かが飛び出してきた。いきなりかよ、と思いダイゴさんを振り返ったが、長い毛の草むらへ入っていってしまったようで、その姿はどこにもない。視線を戻すと、そこにはかわいらしいパッチールがいた。パッチールは村にもよくいるポケモンだし、わりと慣れている。しかし安心はできない。なぜならこのパッチールは野生だからだ。簡潔に答えをまとめると、俺は一目散に逃げ出した。
「う、うわっ! 来るなって」
しかしパッチールは何が面白いのか、楽しそうに、うきうきとした足取りで追い掛けてくる。ダイゴさんは見付からない。パッチールの方から、何か大きなものが動く音がしたものだから期待を込めて振り返った。だが、そこにいたのは大量のパッチール。かわいいものもたくさんいると怖いって本当だな、とか、皆模様が違うな、なんて冷静に考えていると、俺はいつの間にか草むらを抜けてしまった。これじゃ、どうしようもない。パッチールは草むらの影で大群を作り、今にも飛び掛かってきそうだ。開始5分も経たないうちに、俺の草むら探検は終わった。
「ダイゴさーん!!」
「――」
両手をメガホン代わりにして叫ぶと、向こうの方から声が返ってきた。かと思えば、少し段差のある草むらの方からダイゴさんが現れた。この速さをさっきに利用してほしかった。ダイゴさんは俺の姿を見るなり目を丸くした。草むらから出てきてしまったのは不本意だ。というかパッチールのせいだ。走って逃げるときについた泥や火山灰を落とし、はあと息をつく。
「何かあったのかい?」
「パッチールに追いかけられて……ほら、そこ」
「うわ、たくさんいるね。ルイ君、パッチールに好かれてるんだ」
「最初は一匹だったんですけど……」
「……草むら、入れてくれないみたいだね」
「……ですね」
少し離れようか、と次は114番道路に行くことにした。114番道路にはエアームドはいないが、しかし今は何よりパッチールに追い掛けられるのが嫌だった。さっきよりもまた数が増えている。勘弁してほしい。振り向かずに、俺よりも数センチ背の高いダイゴさんの横に並ぶ。無難にダイゴさんに捕まえてもらったほうがいいんじゃないか?俺の時計はまだ午前0時を指している。
流星の滝へは、114番道路を越える必要がある。そのせいかダイゴさんはもう見知ったものらしく、またさくさくと軽やかに進んでいってしまう。また寝惚けたポケモンが現れたら対応しきれない。今度はちゃんとダイゴさんが視界に入るようにして、道を進んだ。ちょっとした橋を通過し、段差をいくつか下りる。まだトレーナーもいない時間だ、いざということは起きそうにないが、起きてもダイゴさんが何とかしてくれるだろう。さっきはてんで役に立たなかったが。いや……あれは俺が悪いのか。
「あ、アメタマだね」
「俺の家の隣に住んでた友達は、ここのアメタマと旅を始めたんですよ」
「へえ。じゃあ今頃はアメモースになっているかもしれないな」
「アメモース……」
アメタマって、進化するのか。それが率直な感想だった。こんなことも知らないなんて、俺はやっぱりトレーナーに向いていないのかもしれない。勉強も嫌いだ。でも、ポケモンと関わり合いという気持ちはある。ポケモンといっしょに旅をして、いつかはダイゴさんに挑みたいとも思っている。そんなことをぼんやり思っているうちに、またもやダイゴさんと離れてしまいそうだったため慌てて付いていった。
「ルイ君、見てごらん。ハブネークだよ」
「……あ、あっちは……」
「ザングースかな。ハブネークのライバルだけど……」
苦しそうに横たわり、荒い息を吐きながらも何とか立ち上がろうとするザングースがいた。
実際にハブネークとザングースが戦っているところを見るのは初めてだった。114番道路に出るときはハブネークに気をつけろと言われるが、ザングースはあまり村に馴染みがない。それと、二匹が戦っているときは巻き込まれないようにして静かに逃げろ、というのが村で教わったことだった。
ダイゴさんは難しい顔で、未だに続こうとしている戦闘を見つめていた。俺は、正直見ていられなかった。野生のポケモンにはここまで激しい戦いと確執があるのかと。そんなこと、まるで知らなかった。しかし、ただ一方的にやられるザングースを、しようがないと割り切るのは……俺にはできない。そんな俺と同調でもしたのか、ダイゴさんは静かに呟いた。
「本能なんだね。彼らが戦うのは」
「……そうですね」
「……どう思う?」
「俺、やっぱりトレーナーには向いてないと思うんです」
そう言った瞬間、自分の中の覚悟が確固たるものになった。自分でも驚くほど、低く強い声だった。
「そんな、」
きっと、そんなことないよ、というのだろう。彼は優しい人だから。だからこそ、最後まで聞かなかった。俺は草むらから飛び出し、止めを刺そうとするハブネークと悔しそうなザングースの間に立ちはだかった。背中は、ザングースに向けて。ハブネークは一瞬動揺したのか、鋭い尻尾を若干背中へ寄せた。じわじわと、手の中に汗が伝う。どくどくと、鼓動が吠える。牙から漏れ出す毒素の雫が地面に落ちて、一瞬でそこの草が枯れた。とにかくザングースだけでも、そう振り返った瞬間――
「ルイ君、伏せて!」
声。ダイゴさんの方を見る余裕もなく、俺はザングースをかばうように伏せる。頭の中には、生態系だの宿敵だのという言葉がぐるぐる回っていた――が、それでも俺はザングースを助けたいと思った。今まで感じたことのないような戦慄に、俺は動かされていた。腕の中のザングースはすっかり弱りきっていて、触っても何の抵抗もせず身動ぎひとつしない。俺は目を瞑って、腕に力を込めた。
「エアームド、はがねのつばさ!」
走った衝撃が、次第に収まってゆく。薄く目を開けると、ハブネークがしゅるしゅると、文字通り尻尾を巻いて退散するのが見えた。辺りの地面が全体的に少し、抉れている。その凄まじい威力は、チャンピオンだと再認識するに難くなかった。
「ルイ君、ザングースに」
「は、はい……!」
ダイゴさんから受け取ったきずぐすりを当ててやると、ザングースはゆっくりと腕を動かし、長い爪をぶつけぬようにそっと俺の体に触れてくれた。もう大丈夫、というように何度も、俺の肩に触れる。慰めるように、安心させるように。思わず泣き出してしまいそうなくらいの、優しさだった。
「……僕はこの子がいいと思うんだけどな」
「え?」
「パートナー。エアームドもいいけれど、ルイ君にはこのザングースがいいと思うんだ」
「……あ、」
そうだ、俺はポケモンを――。すると、ザングースはこくこくと頷いて、俺の足元に傅いた。実際は俺も地べたに尻餅をついている状態なので、格好もなにもありゃしないが。ダイゴさんはひとつのボールを取り出した。見たことのないボールだ。ダイゴさんは俺の腕から時計を外すと、頷いてザングースの方を指した。ザングースも、心なしか少し嬉しそうな気がした。
「うお、」
「あ」
立ち上がり、いざ投げるぞとかまえたが、手汗で濡れていたせいでボールが滑り落ちる。慌てて手を伸ばしたが、届かない。
それは――ザングースの頭の上へ落下した。
ぱかりとそれは開き、赤い光が走ってボールは静かになった。しーんとした空間の中、笑うダイゴさんがぽかんと立ちすくむ俺に時計を差し出す。
一体何かと思い見れば――時計は動き始めていた。現在、0時2分。しかし日にちはまだ1月1日のままだ。
「君と、ザングースが出会ってから過ごした時間だよ」
「……え、」
「それと、そのボールはヒールボールといってね、捕まえたポケモンを癒す効果がある」
「あ、ありがとうございます」
「……まさかあんな捕まえ方をするなんてね」
「俺もそう思います……」
それから、俺はダイゴさんと握手した。パートナーを探して、捕まえる手助けをしてくれた人だ、感謝以外の言葉はない。足もちょっと痛かったけれど、名誉の負傷だ。エアームドにもお礼を言い、ちょっとだけ撫でさせてもらった。ふかふかのザングースとは似ても似つかぬほど、鋼質だった。やっぱり憧れが残るが……また今度でもいいだろう。
「ありがとうございます。あの、絶対俺、またダイゴさんに会いに行きます」
「楽しみだ。僕も、君に会うまでにもっと強くなってみせるよ」
これ以上強くなってどうするんですか、なんて笑い合うと俺の持つボールがかたかたと動いた。早速やる気を出してくれているのだろうか。ダイゴさんには家に寄って行ってもらおうかと思ったが、すぐにリーグから連絡があり、急いで飛んでいってしまった。チャンピオンはやっぱり忙しい。日も昇り、明るくなってきた。
今日、俺は旅に出る。もう荷物はまとめてあるから、あとは村の人たちに挨拶をして――。七年待った、夢の旅。ハジツゲタウンのルイが有名になるのは、いつだろう。うん、楽しみだ。
ザングースが普段は四足歩行だったと知るのは、俺の時計で2時14分の頃だった。
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