●蜃気楼の中で
昔むかしのお話です。
ホウエン地方の絶海に浮かぶその島は、かつて自然の楽園でした。外界から隔絶された島では、豊富に降り注ぐ雨と常夏の気候に抱かれ、生き物たちは平和に暮らしておりました。
その夜、島の周辺は大嵐に包まれていました。海は真っ暗に荒れ狂い、風雨は槍のように降りそそぎ、稲妻は雲を切り裂きます。戦のたびに姿を現し、町を跡形もなく焼き尽くすという、暴龍の怒りもかくやと思われるほどでありました。
幾隻もの船が難破し、一夜のうちに失われた命は数えきれないほどに上りました。
そんな中、一人の旅人が浜に打ち上げられたのは、まったく奇跡のようなものでありました。
男が目を覚ましたとき、横たわっていたのは夜が明けたばかりの見知らぬ海岸でした。
大声で助けを呼ぶも返事はなく、人の暮らすわずかな気配すら感じ取れません。
男は、自分が流れ着いたのが、小さな無人島だと気が付きました。
カイナの港を旅立って、ルネ島を経由しミナモへ至る行程には、人の住まない島々が点在しています。ここもそういった名もない島の一つなのでしょう。
助かった喜びと、生き延びる見通しの全く立たない不安に混乱し、男はしばらくその場に立ち尽くしました。島に漂着したとき男が身に着けていたものは、がらくた同然の銅銭を除けば、竹筒が一つと、小刀が二つ、砥石が一つに、旅先で土産物として入手した幾つかの硝子玉だけ。それが彼の持っているすべてでした。
絶望の中、それでも男が最初にとった行動は、飲み水を確保しようとすることでした。人は、水なしでは数日と生き延びることができません。溺れて海水を飲んだせいか、喉は焼けつくように渇いていました。
倒れ込みそうになりながらも浜辺を歩き、獣道が細々と続く林に足を踏み入れ、必死になって水を探しました。林の木々には所々、獣が引っ掻いたような跡がありました。耳を澄ませば、遠くからかすかに草の葉のすれ合う音も聞こえました。
この林にどんな猛獣が潜んでいるか知れないと考えるだけで暗澹とした気持ちになりましたが、少なくとも獣が暮らしていけるだけの環境であるということは、いくらかの慰めになりました。
何の収穫もないまま林を抜けたところで、ようやく島の西にある岬の大岩の間から、綺麗な真水が湧き出しているのを見つけました。男は歓喜の叫び声をあげ、湧き水の元に走り寄りました。そして思う存分水を飲んだ後、近くの岩に開いた大穴を当面の生活の拠点と定めたのであります。
飲み水と寝床を確保することができると、男は次に食べるものを探しました。
西の岬は緩やかな斜面になっていました。そこを登り切ったとき、男は岬の先端に、見たことのない奇妙な木が生えているのを見つけました。
木は地面から生える短い幹に、一対の長いねじれた葉を生やしていました。そんな木が幾つも生えている中で、たった一本だけ、根元に鮮やかな赤い実が残っているのに気が付きました。周囲を見渡すと、獣が無造作に食い散らかしたのであろう、赤い木の実の残骸が散らばっています。
――見たことのない木の実だが、獣に食えたのなら自分にも食えないことはないだろう。
そう思い、赤い実の最後の一つを手に取り、恐る恐る頬張ってみましたが、慌ててぺっと地面に吐き出しました。
木の実は酷い味でした。毒ではないかもしれませんが、辛くてとても食べられたものではありません。
淡い期待から落胆へと一気に突き落とされた男は、怒りにまかせてその実を地面に叩きつけました。赤い実は潰れ、果汁があたりに飛び散りました。
男の考えが正しければ、帰るべきホウエンの地は、おそらく島の北側に見えるはずでした。
ところが、崖の上から彼方の水平線に目をやれば、ただ青い大海原が一面に広がっているだけで、岩の一つさえ視界に映りません。
潰れた実の匂いに誘われてか、背後の草むらから小さな豆狸がひょっこりと顔を覗かせました。豆狸はしばらくひくひくと鼻を動かしていましたが、男と目が合うと、そそくさと逃げてゆきました。
男はそれを追いかけようとして、すぐに思い留まりました。まともな武器を持っていませんでしたし、捕まえたところで生の肉を貪るわけにはいきません。狩りをするためには武器と火が必要でした。
やむなく、海岸で見つけたわずかな貝や海藻を食べて飢えをしのぐ生活が続きました。
何の用意もないところから火を得るということは、想像以上に難しいことでありました。
どこかで聞いたことのある、枯れ枝をこすり合わせ、摩擦で熱を起こすという方法を試してみても、煙が一筋立ち上るばかりで、一向に火の付く気配はありませんでした。
せめて火打石の一つでも持っていれば、こんな苦労をせずに済んだのに、と男は幾度となくため息をつきました。火打石というものは、鋼鉄の板と、鋭く硬い石の組み合わせで火花を起こす道具です。闇雲に石同士を打ち合わせていては、いつまでたっても火が付くことはありません。硬い石ならいくらでも手に入れることができましたが、鉄はそうはいきません。火打石を作るには、貴重な小刀を一本犠牲にしなければならないでしょう。
難しい選択に、男は何日も悩み続けました。
この状況を打開したのは、何の役にも立たないだろうと決め込んでいた硝子玉でした。
当時としては珍しい硝子玉は、男が旅の途中で立ち寄った、煙突山の麓にあるハジツゲの町の名産品でありました。手元ある硝子の一つは透明で扁平な形をしており、小さなものを大きく見せ、光を一点に集める性質がありました。
男はその光を使って火を起こす方法に気が付いたのです。
乾燥した草を丸めたものに、高く昇った陽の光を集めると、草は容易く燃え上がりました。
火は男に、食糧の充足と久々の安堵をもたらしました。
島には三ツ首の、翼のない怪鳥が住んでいました。三ツ首鳥はとても足が速いため、捕えることはできませんでしたが、その巣を探せば大きな卵が手に入りました。海に行けば、魚がいくらでも泳いでいて、木の枝を尖らせた銛で突けば簡単に仕留めることができました。
男は火によって、安定した食糧を確保すると同時に、自由な時間まで得たのです。この意味は大きなものでした。余った時間を利用して、男は生活のための様々な道具を作り始めました。
島には麻に似た植物が自生しておりました。男はその植物の茎から繊維を採り、より合わせて丈夫な縄をないました。そのおかげで、籠や草履を作ることができるようになり、男の暮らしは便利になりました。
海岸にどこからともなく青い椰子の実が流れ着いていたこともありました。椰子の実はそのまま食べるとたいそう渋いものでありましたが、真水に晒せば渋みが溶け出し、ほんのり甘い果肉が残ります。男は椰子の果肉を残さず平らげ、硬くて丈夫な殻は器にしました。
また、男は粘土をこねあげ、天日で干した後に火にくべて、水を入れても崩れない立派な鍋さえこしらえました。
こうして生活に余裕が生まれると、男は狩りをするための武器が欲しくなりました。青竹を切って来て、じっくりと力を加えて湾曲させ、弦を張ると弓が出来上がりました。矢には竹の細枝に、三ツ首鳥の尾の矢羽と石の矢尻をつけました。少々不格好ではありましたが、林の木を的にして射てみると、中々の威力が出ると分かりました。
島の反対側にある水場には、おとなしくて動きの遅い水兎が棲んでいました。水兎の肉は脂が多く、あまり美味しいものではありませんでしたが、効率的に栄養を摂るには丁度良い獲物でした。
竹の弓により、男の生活は一層豊かにはなりました。
ところが、このことが後に新たな困難を呼び寄せてしまうのでした。
ある日太陽が西に傾き始めたころ、男はいつものように狩場へ赴き、水浴びをしている一匹の兎に狙いを定めました。息をひそめ、岩陰に身を隠しながらじりじりと距離を詰め、ぴんと張った弓から矢を放ちました。
矢は水兎目掛けて一直線に飛び、あと一寸で身体に命中すると男が確信したその瞬間――。
突然鋭い音とともに飛来した風の刃により、矢はあっけなく打ち落とされ、地面に転がりました。
獲物はその音に気が付き、一目散に逃げてゆきました。
何が起こったかわからず、硬直した姿勢のまま、男は頭上から轟く獣の咆哮を聞いたのでした。
男が視線を上げると、全身を純白の毛皮に覆われた、一頭の獣が岩の上から男を見下ろしていました。頭の片側から生える角は、命を刈り取る大鎌のように湾曲し、闇色の顔面に浮かぶ紅い眼は篝火のごとく燃えていました。
獣の放つ威圧感にたじろぎ、男は数歩後ずさりました。そして、
――さては、この獣こそ噂に聞く、不吉な白獅子に違いない。
そう、確信しました。
古くから、津波や暴風、地震に雷、火山の噴火など……大きな災害の起こる前には、件の白獅子が人里の近くで目撃されてきたといいます。人々は白獅子が災いを呼び起こすのだと信じ、うち滅ぼそうとしました。今となっては、高く険しい山の奥にしか、その獣は棲んでいないといいます。
その白獅子が、何の因果かこの島にはまだ残っていたのでした。
――俺が島に漂流する原因となった大嵐も、きっとこいつが呼んだに違いない。
敵対心も露わに睨みつける男に向かって、白獅子は黒い角を振りかぶり、一気に空を切りました。
発生した真空の刃が男へと襲い掛かり、構えていた弓が二つに切断されました。
それを見届けた白獅子は、高らかに一声吠えると、身を翻して林の方へ消えてゆきました。
せっかく作り上げた竹弓をいとも簡単に破壊され、男は驚きとともに激しい憤りを覚えました。
何としてでもあの化け物を倒さねば、己は永劫、島から出ることも叶わぬような気がしたのです。
災厄を招く白獅子は、立ちはだかる自然の脅威そのもののようでした。
噂に聞いている白獅子の寿命は人と同等か、もしくはそれ以上に及ぶといいます。悠長に待ってはいられません。
それ以来、寝ても覚めても脳裏に浮かぶのは白獅子を仕留める事だけでした。
最初の遭遇の後、狩りをしようとするたびに白獅子の姿を目にするようになりました。
白獅子はこの島に暮らす獣たちの王でありました。東の岩山の頂上付近にねぐらを構えているようで、険しい岩肌を軽々と登ってゆきます。
白獅子を見かけた後には、決まって悪いことが起こるようでありました。大切な小刀の先が欠けてしまったり、苦労して維持していた火種がにわか雨に当たって消えてしまったり、林の中で掻き分けた小枝が鞭のように跳ねかえって、危うく目に当たりそうになったこともありました。
白獅子が高い岩の上に潜んでいるときに手を出すことは困難でした。急な傾斜地では、身軽な獣に分があります。
先の遭遇から、弓矢が役に立たないことは分かっていましたから、男は白獅子の通り道に罠を仕掛けることにいたしました。丈夫な縄で作った括り罠は、しかし、すぐさま白獅子に見抜かれてしまいました。罠にかかるのはまだ若い豆狸くらいのものであり、しかも運悪く白獅子に見つかると、せっかく捕えた獲物も縄を切られて逃がされてしまうのでした。男は狩りができなくなり、元の侘しい生活に逆戻りせざるを得なくなりました。
こうして男の獣に対する苛立ちは日増しに募ってゆきました。
狭い縄張りの中で、一人と一匹が共存することなど、およそ不可能なことでありました。
長雨の明けた蒸し暑い日のことでした。男は林の中で、己の身長の二倍はあろうかという牙蛇の屍を見つけました。死後数年は経過しているもの思われ、その身は朽ち果て、白骨となっていました。よく見れば、首のあたりの骨が分断されています。
男は考えました。この骨の主は、あの白獅子が倒したのだろうか、と。
答えは分からず終いでしたが、何にせよ、生きた大蛇に出会わなくてよかったと男は安堵しました。ホウエンの地では牙蛇はたいへん危険な生き物として恐れられていたからです。牙と尾の先には強力な毒があり、その毒にまともに耐性を持っているのは、宿敵である猫鼬だけだといいます。
大蛇の白骨の周りには、牙から染み出した毒の影響か、雑草すらも枯れ果てて、ほとんど不毛の地となっておりました。しかしよく見れば、その中でごくわずかだけ生き残っている草がありました。
その草の葉の形は、食用となる植物の葉によく似ておりました。ですが、その葉には実は猛烈な毒があるということを男は知っていました。
男は最初、こんな危険な草は、残らず燃やしてしまおうと考えました。しかし、ふと、この島ではどんな物であっても何かしら利用できるのではと考え直しました。
そして男は草を根ごと掘り起こし、大蛇の骨から引き抜いた牙とともに持ち帰りました。
男は寝床の洞穴の入口近くに毒草を植えました。地面にしみ込んだ大蛇の毒の影響で成長が抑えられていたのか、草は瞬く間に繁茂しました。その葉を集めてすりつぶし、水に溶かした液を陽に当てて乾燥させると、粉状の毒が得られました。
憎き白獅子を仕留める計画は、それはそれは恐ろしいものでした。
島には元々綺麗な水場は二つありました。一つは男が寝床にしている西の岬の湧き水。もう一つは、東の岩場に開いた穴に雨水がたまる場所です。
男が西の岬に住みつくようになって以来、獣たちは東側の水場に集まるようになっていました。そしてそれはあの白獅子とて例外ではありませんでした。
男は集めた毒を白獅子のいない隙に東の水場に放り込んだのです。
すると、たちまち毒の効果が現れました。
毒を飲んだ獣たちの多くは、水を吐き、手足を痙攣させて次々に倒れました。神経に錯乱をきたし、むやみやたらと走り回る獣も見られました。
白獅子はその様子を見て、いち早く異変に気が付いたのでしょう。毒の水場を避け、岩場の小さな割れ目にたまったわずかな水を糧にして、難を逃れました。
雨の季節は終わり、乾燥した大気が島を覆いました。東と西の大きな水場を除いて、水たまりは次々に干上がってゆきます。流石の白獅子も水を飲まずに何日も過ごすことなどできませんでした。
陽射しの厳しい日の黄昏時、男の構える西の水場に、とうとう白獅子は姿を現しました。
男は岩陰に隠れ、息を殺して白獅子の様子を窺いました。
夕陽の中、項垂れ、一歩ずつ地面を確かめるように歩を進める白獅子からは、いつもの覇気は感じ取れません。
水の不足が判断力を鈍らせ、注意力を散漫にさせたのでしょうか。あるいは、極度の渇きに耐えかねてわずかでも毒を飲んだのかもしれません。
男が仕掛けた括り罠の上に、獣は足を乗せました。
その瞬間、綱が白獅子の前足に食い込み、白獅子の体が傾きました。
――今だっ。
ひるんだ白獅子に向かって、男は大蛇の毒牙を突き立てました。大蛇本来の毒は、長い間雨ざらしになっていたことにより流れ落ちてしまっていましたが、牙には大蛇が獲物に毒を流し込むための細い溝が入っていました。男はその溝に、草の毒を注いでいたのです。
牙は左の腹に突き刺さり、獣は苦痛の叫びを上げました。
振り下ろされた鋭利な角の一撃を飛びのいてかわし、男は白獅子から距離を取ります。
白獅子は死にもの狂いで前足を捕えている縄を引きちぎり、岬の上へと逃れてゆきました。
その背に向かって男は次々に矢を射ました。弓は新しく丈夫に作り直し、矢尻には毒も塗ってありました。
獣は美しい毛皮を紅く染め、長く吠えながら岬の尖端まで敗走を続けます。
――今こそ、あの獣を捕える時だ。
求め続けた獲物を前に、鼓動は早鐘のように打ち付け、血は興奮で湧きあがりました。
――毛皮は使える。それに――
黒い角は災いを操る力の源であると信じられていましたから、男はそれを手に入れようとしたのです。
構えた弓を緩めることなく、男は後を追いました。
追い詰められた白獅子は、鋭い眼光とともに、男の方を振り返りました。
もはやこれまでと悟ったのでしょう。
白い身体は、夕陽と流れ出た血により、紅く、紅く燃えていました。
憎悪に染まった暗い瞳の奥に、決して屈しない強い意志が映ります。
そして、島の獣の最後の王としての矜持は、人の手にかかるより、自ら命を絶つ道を選ばせたようでした。
獣は身を翻し、後足で崖の尖端を蹴りました。
そしてそのまま、血も凍るような断末魔とともに、荒れ狂う暗黒の海の底へと真っ逆さまに落ちていったのであります。
男はあっけにとられ、危うく崩れそうになる足取りでようやく岬の先端まで辿り着きました。足元を見下ろすと、大きな波が岩に砕けて、真白な泡が渦巻きどよめいているだけで、白獅子の姿を見つけることは、とうとうできませんでした。
その島には一頭の白獅子を除いて、肉を食べる獣はいませんでした。
狭い土地から得られる食物は限られており、猛獣が多く暮らすのには不十分だったからでしょう。
漂流者の男は、今や島で最も賢く、獰猛な獣でした。
もはや男に恐れるものなど何もありません。
ところが、どうしたというのでしょう。
脅威は去ったというのに、男の心は渇いていました。生きるための障壁が消えると同時に、生きる目的さえも見失ってしまったようで、満たされない欲求だけが日を追うごとに膨らんでいきました。
ただ生きていくだけで充実していた日々は、いつの間にか過ぎ去ってしまっていたのです。
穏やかに晴れた晩、男は岬の上に仰向けに寝転がって取り留めもなく思考を走らせました。夜空には宝石を散りばめたように、満天の星が輝いていました。
男はふと、果てもなく広がる空を、こうしてじっくりと見上げたことがあっただろうか、と考えました。
彼はルネ島の生まれでありました。火山島の古い火口跡に造られた集落は、岸壁により陽の光が遮られ、真昼になるまで薄暗い場所でした。そして火口の中から見上げた空は、いつも円いものでした。
全ての人が海に潜ってルネ島の外に出られるわけではありませんでしたから、火口で生まれ、一度も外に出ることなくその地に骨を埋める人々は、空の広さも海の本当の蒼さも知らずに一生を終えるのです。
男は幼いころ、何気なく空を見上げると、円形に切り取られた空間に閉じ込められているような錯覚を覚え、言いようのない不安に駆られたものです。
思い起こせば、それが恐ろしくて男は旅に出たのでした。
――生まれた土地に縛られることを嫌い、自由を求めて広い世界に出たはずなのに、こんなところに囚われているとは、何と皮肉なことだろう。
逆境の中で見て見ぬふりをしてきた現実が、突如として目の前に立ち塞がりました。
――結局、己はどこまでも無力であり、人知れず惨めに朽ちてゆく値打ちしかなかったのだ。
そう思うと、不意に目頭が熱くなり、漂流して以来流したことのなかった涙が一筋こぼれました。
霞んだ視線の先に映るのは、鈍い光を放ちながら水平線の向こうに沈んでゆく三日月でした。
三日月を見つめすぎると気が狂れると教えてくれたのは、確か今は亡き祖母であった、と彼は思い出しました。
茫洋たる宵闇に浮かぶ三日月の形は、仄暗い海に身を投げた気高き獣の角のようでもあり、その獣に突き立てた大蛇の毒牙のようでもありました。
何にせよ、三日月は鎌に似ていました。鋭利な刃物に似ていました。
男は自慢の弓矢で、次々に獲物を狩りました。
足の速い、三ツ首の飛べない鳥がまず狙われ、数年後には一羽もいなくなりました。清潔な水辺を奪われたからでしょうか。好奇心旺盛で綺麗好きな水兎たちは、子を残すことなく死に絶えました。弾丸のように走る穴熊も、その子の豆狸も、いつの間にか姿を消しました。
見かけなくなってゆく獣たちとは反対に、奇怪な生き物が島を跋扈するようになりました。
その生き物は青い肌と、一ツ目模様の付いた黒く長い尾をもった小人で、その顔はあたかも人の子が朗らかに笑っているかのようでした。
小人たちは、海辺の狭い洞窟の間隙、男が入り込むこともできなかった小さな隙間から出てきたようでした。
彼らは、初めのうちは男から逃げ隠れるようにしていましたが、次第にその数を増し、ついには我が物顔で島を歩き回るようになりました。男は特に関心を抱かず、それらが増えるに任せていました。
いよいよ食べるものがなくなったら、こいつらを狩ることになるのだろうか、と思いながら。
どれほどの時を過ごしたでしょう。
島には見慣れた獣は一匹もいなくなり、時折草むらから飛び出してくるのは青い肌の小人だけになりました。
何らかの偶然に通りかかった船が、幸運にも自分を助け出してくれるのではという淡い希望は、とっくの昔に潰えていました。そもそも、船がこの島の周りを通りかかるところなど、一度も見たことはなかったのです。
男の孤独は極限に達していました。
――このままここから出ることができないなら、じりじりと忍び寄る死の影に怯えて生きていても仕方がない。いっそ潔くあの岬から飛び降りてしまおうか。
そう思ったことは幾度となくありましたが、白い泡が渦巻いているのを高い崖の上から波が砕け見下ろすと、決意は挫け、眩暈とともに引き返すことになるのでした。
そんなある朝のこと、何かが風にぶつかる大きな音と、甲高くけたたましいさえずり声が、男を叩き起こしました。慌てて洞穴から這い出た男は、頭上を黒い影が幾つも幾つも通過していくのを見ました。
影たちは岬に降り立ち、翼を折りたたむとそのくちばしで何かをついばみ始めました。
黒い影の正体は、本島では決して珍しくない鳥――大燕の群れでした。この島には地を駆ける三ツ首鳥しかいませんでしたから、鳥とは本来大空を飛ぶものだ、という常識を男は忘れかけていました。
鳥たちは、男が漂流したときに一つだけ見つけたものの、食べられずに捨ててしまった、奇妙な赤い実をついばんでいたのです。よくよく見れば、岬のあちこちに、ねじれた形の不思議な木々が一斉に赤い実をつけていました。
男が大燕を見るのは実に十年ぶり――この無人島に漂着して以来のことでした。ついぞ見かけることのなかった大燕が今更になってどうして、と男はいぶかしみましたが、すぐにそんなことはどうでもよくなりました。
大燕は、遥か彼方の南の国から、春先にホウエンの地に飛来し、人家の近くに巣を作って子を育てます。
この一群も、そうして渡りの途中にたまたまこの無人島へ立ち寄ったのでしょう。
大燕は田畑を荒らす害虫を食べる益鳥であり、この鳥が巣を作った家は栄えるとも言われていました。燕は人々にとってたいへん身近な鳥であり、高くさえずるその声は、今となってはもう遠い、古い記憶を呼び覚ましました。
――嗚呼、懐かしい。燕たちが軒下に巣をつくる、人家の明かりの暖かさよ……。
そうこうしているうちに、大燕の群れは赤い実を食べつくし、岬から飛び立とうとし始めました。
男は焦りました。
これは、この島を抜け出す最大の――そして最後かもしれない――好機だと思い至ったからです。ぼやぼやしていては、せっかく機会を逃してしまいます。
彼は知る由もありませんでしたが、普段歪んだ時空の狭間に存在するその無人島は、およそ十年に一度、不思議な木が赤い実を結んだ時にだけ蜃気楼のように姿を現すのでした。
この時を逃せば、男はまた次の十年、幻の中をさまようことになったでしょう。
――待ってくれ。
彼は心の中で叫びました。長い間人と話すことがなかったからでしょうか、口からは言葉にならない呻き声が漏れ出ました。
――俺も連れて行ってくれ。どこでもいい。……人の暮らすところへ。
十年の時を経てもなお、望郷の念は消えることなく、心は人の世界に属していました。どれほど荒んだ生活を続けても、あの白き獣の王のように、自然と一体となって生きることは、とうとうできなかったのです。
そのことに気が付いてしまった今、もはや引き返すことは不可能でした。脱出か死か――極限の選択に追い立てられ、手負いの白獅子が最期に身を躍らせた岬を、今度は男が駆け登る番でした。
黒い鳥たちは、大空いっぱいに翼を広げ、一羽、また一羽と地を離れてゆきます。
男は、その影を追い、斜面を駆け登り、無我夢中で最後の一羽を追いかけました。
崖の切っ先まであと数歩、それまでに何とか脚に掴まらなければ、男もまた底なしの海へと転落してしまうでしょう。
男の足が力強く岬の尖端を蹴り、そして、その手で――
身体が、ふわりと宙に浮き上がりました。
飛び去った男がその後どうなったのか、行方はようとして知れません。
ですが蜃気楼の中に浮かぶその島では、青い肌の小人たちが不思議な赤い実のなる木を見守りながら、今でも静かに暮らしているということです。
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