●幻想ミレニアム
状況は最悪だった。
後ろからは殺気を漲らせた数名の追手。そして前方はどこへ続くのか見当もつかない一本道の洞窟。私たちには、この道が安全な場所へつながっていると信じて走る外なす術がなかった。
そもそも元の指示が無理なものだった。
こちらの三倍以上の戦力を持つ敵国の攻撃から、増援が来るまで三日持ちこたえろと。
一日耐えただけでも十分すぎる働きだろう。
そして現在、敵はこちらの残存戦力の始末に入っていた。
「キュウコン、まだ走れるか」
隣で走る主が、苦痛の表情を浮かべながら尋ねてくる。
頬、胸、腕、足、いたる所から血を流す主の姿は見るに堪えないものだった。出来ることなら主を背に乗せてやりたいが、私も足に傷を負い自分のことだけで精一杯だった。
ただ、いつまでもこうしてはいられない。主にも私にもいずれ限界が来るだろう。もしくは――、
「行き止まりか」
大きなカーブを抜けた先に存在したのは、ただ岩の壁だけだった。つまりこの先へはもう進めない。
主は悔しがる様子もなく壁に背を預けて座り込む。いや、ほとんど倒れ込むようだった。主の周りには赤黒い血溜まりが少しずつ広がり、鉄の臭いが通路に充満する。私も疲れと痛みで足がもつれ、腹這いに崩れる。
間もなく彼らもこちらへ来て私たちを殺しにかかるだろう。けれどもう抵抗する気力など残っていなかった。
「お前もこっちに来いよ」
主が片腕を広げ呼びかける。最期は側にいたい、そういうことだろう。
主の元へ向かおうと足を踏み出す。その時視界の端で何かが動いた。
(あれは――岩陰に誰かいる?)
「キュウコン?」
私が一点を見続けていることに気づき、主が声をかける。
答える代わりに、岩陰を覗き正体を確かめる。
そこには小さなポケモンが身を縮こまらせ震えていた。
頭は黄と白の星型で、体を腰から延びる一対の白い帯で覆っている。
見たことのないポケモンだった。
「どうした、何か見つけたのか?」
主が壁に手をつきながら私の隣まで来る。そして私の視線の先にいる者に気づくと、かすれるような声で呟いた。
「ジラーチ……」
それがあのポケモンの名前なのだろうか。やはり聞いたことがない。
主はそっと彼に向けて両手を伸ばした。
人の手に収まる程の小さな体。それに主が触れたのと、追手の足音が止まったのはほぼ同時だった。
振り返れば、通路をふさぐように彼らは立っていた。
人間は手に武器を持ち、その前方でヘルガーが数匹構えている。
今更足掻こうとは思わない。半ば諦めた目で彼らを見るだけだった。
しかし主は違った。むしろ先程より顔に希望が灯っている。
一体この状況でどうするというのか。
敵には目もくれず、主は手の中のジラーチに強く言った。
「ジラーチ、キュウコンと俺を安全な場所へ!」
その一言でジラーチは今まできつく閉じていた瞳をうっすらと開いた。そして主の顔を覗くと、こくこくと頷き、左の短冊に文字が浮かび上がる。
そして私たちの姿は、一瞬のうちにその場から消えたのだった。
左右には高い崖。草木は一本もなく、赤茶色の土が一面に広がり、大小様々な岩があちらこちらに見える。そんな巨大な谷の中に私たちはいた。
聞こえるのは風の音のみで、他に誰の気配も感じられない。
ここは一体どこなのだろう。今まで洞窟の中にいたはずだが。
確か主がジラーチに何かを言っていた。そのおかげなのだろうか。
主に訊けば分かるだろうと視線を巡らせると、ドダイトス程の岩の上に主とジラーチが向い合わせに座っていた。
私もそちらへ行こうと立ち上がった途端、激痛が走った。たまらず膝をつく。
見れば右前足と左後足のそれぞれ踵から爪先にかけて、一直線に深い切り傷が出来ていた。そしてそこから溢れる血が金毛を朱色に染めていた。
これではしばらく歩けそうにない。しかしよくあれだけ走れたものだ。逃げるのに必死で痛みにすら気が付かなかったか。
とりあえず出血が収まるまでおとなしくしていた方がいいかもしれない。
そう決め、地面にうつ伏せになっていると、風に乗って主とジラーチの会話が聞こえてきた。
他にすることもなく、それに耳を澄ませる。
「ボクのこと知ってたの?」
「小さい頃に絵本で読んだんだ。千年に一度目を覚まし、三つ願いを叶えてくれる、だろ?」
「その通り。そっか、千年前にボクと会った人が伝えていったのかな。あの人は変わった人だったよ。願い事がとにかく変わってて――あ、ごめん。時間がないんだったね」
「悪いな。話ならキュウコンが聞いてくれるだろうから、後で思う存分するといい」
「そうさせてもらうよ。で、二つ目の願い事は決まったかい?」
「ああ、キュウコンの治癒を頼む」
「了解」
そこで会話は途切れ、二枚目の短冊に光が灯る。
直後、私の体を白い光が包んだ。暖かく柔らかで、眩しいとは思わない。不思議な感覚だった。
見る間に傷が癒えていく。足の傷も無かったかのように消えていった。
光が弱まる頃には、すっかり歩けるようになっていた。
その足で主の元へ駆けていく。
一度の跳躍で岩に飛び乗り、主の向かいに立つ。そこで改めて主の惨状を見て、息をのんだ。
洞窟で見た時よりも、さらに出血がひどい。
だが、ジラーチの力ならこれも治せるのではないか。
そう望みを持ち、隣のジラーチに詰め寄った。
「主の傷を癒してくれ。お願いだ!」
「…………」
けれど、ジラーチは無言で視線を逸らすだけだった。
「なぜ目を逸らす。私の傷は治ったんだ。主のだって治せるはずだろ」
「……きない」
「大事な主なんだ。早く、頼む!」
「ボクにも出来ないんだよ!」
ジラーチの声で我に返る。
「……すまない。少し血が上っていた」
なんとかそれは治まった。が、出来ない、その言葉が頭の中で反響する。
「キミの傷はまだ何とかなったんだ。でもキミのトレーナーは違う。あれは今さらボクがどうしようと――間に合わない。極度に命に関わることはボクでも干渉できないんだ。まだ生きていることの方が不思議なんだよ」
「そんな……」
呆然と主の顔を見上げる。傷は治ったはずなのに体も口も動かすことが出来ない。
悔しさと悲しさとその他様々な感情が混ざり合い、自分でも何だか分からなかった。
けれど、そんな感情は一瞬ですべて吹き飛ばされた。
主の手が頭に触れ、耳と耳の間を何度も撫でる。それだけで十分だった。
そして首に両腕を当て、抱き寄せた。
心地よい体温が伝わってくる。こんなことをされるのはいつ以来だろうか。
ずっとこのままでいたい。そうとも思ったがきっとそれは叶わない。
「ごめんな、キュウコン。俺はもう駄目みたいだ。全然力が入んないし、目を開けてるのも辛い。こんなに早くお前と別れるつもりはなかったが、悪いな」
耳元で主が語りかける。
何も答えず私は黙って聞いていた。
「俺はもう無理だが、お前はしっかり生きてくれよ。まだずっと長く生きられるんだからな」
主の声を一言一句心の中で反芻する。主の体温、預けられる体重、全部。
ただ、まだ一つの不安がまだ残っていた。
ジラーチに通訳を頼んで、主に少し意地悪く問いかける。
「主はひどい人だ。こんな何も無い場所で私をひとりにするのか。一体私はどうやって生きていけばいいと言うんだ」
「そうだな……」
主はしばらく考え、思いついたのかジラーチに視線を向け、口を開く。
「ジラーチ、三つ目の願い事だ。ここで育てられそうな花の種を出してくれるか」
「種? それでいいの?」
「そうだ、出来るか?」
「出来るけど……」
少し躊躇っていたようだが、すぐ最後の短冊に文字が記されていく。やがて主の手の中に小さな布の袋が現れた。逆さにすると、小さな種が数粒現れた。
「それは毎年春に白い花を咲かせるんだ。どこでも育つことができるから、水さえしっかりあげれば平気だよ」
「ということだ、キュウコン。これからお前に仕事を与えよう。そして、俺からの最後の願いだ。この種を蒔いて、花を咲かせるんだ。死に場に何もないと寂しいからな。そして千年後、ジラーチに見せてやれ。こんなになったってな。もちろん、お前が他の場所へ行ったって構わない。お前が他にやりたいことを見つけたなら、それはお前の自由にするべきだ。とりあえず何年かやってみてくれよ。添える花もないしさ。ほら」
差し出された袋を前足で受け取る。爪程の小さな種だった。
「さてと、本当にもう限界だ。ありがとうなジラーチ。そして――キュウコン、大好きだ」
最後に口づけを交わすと――主はそっと私から手を放した。
それから主の身体を岩のすぐ脇に埋め、目印にいくつかの石を積んだ。中央の石には炎で主の名を刻んだ。
それが終わる頃にはもう日は沈みかけていた。
「暗くなったし他は明日にしない? 疲れてるだろうしもう休んだ方がいいと思うんだ」
傷は癒えても体力が戻っていないのは確かだ。
ここはジラーチの提案に乗り、先に眠らせてもらうことにした。
それに、今日だけは主の側から離れる気になれなかった。
目を覚ますと昨日はなかった音が聞こえる。――水の音だ。
「おはよう。驚いた?」
ふわふわと空に浮かびながら、ジラーチは自慢げに問いかけてくる。
「ああ、お前がやったのか?」
向こうにあるのは川だった。右の崖から滝となって流れ落ち、中央を流れ谷の先へ向かっている。
一晩で自然にできるはずがないから、誰かが作ったことになる。そしてそれはジラーチだ。
私が疑問に思ったのは「誰が」ではなく、「なぜか」ということだ。
主の話によると、ジラーチが叶える願いは三つまでとなっているし、そもそも私は願ってなどいない。
「彼の願い事は『ボクが出した種を、君がここで育てる』だった。それを叶えるためには花を育てる条件が整わないといけない。そのために向こうの方にある湖から川を引っ張ってきたんだ。要するにこれも三つ目に含まれるってこと」
「昨日早く寝るように促したのは、私を驚かせるためでもあったのか?」
「それもあるね」
「凄いな。こんなことも出来るのか」
「そんなことないよ。逆にこれぐらいしかできないから」
墓の方を振り返って寂しげに言う。どう声をかけていいか分からず、少しの間沈黙が訪れた。しばらくして、思い出したようにジラーチは「そうそう」と切り出した。
「湖まで行ったんだけど、誰にも会わなかったんだ。もしかしたら人間にもポケモンにも未開の地なのかもしれないね」
「そんな所に私達を飛ばしたのか?」
「緊急事態だったから仕方ないよ」
「それもそうか」
あの場から逃げられただけでも十分すぎるくらいだ。それ以上望むのは欲張り過ぎか。
「それに、今まで大変だったんでしょ? ここでゆっくり過ごしてみるのもいいんじゃないかな」
「そうだな……」
特にこれといってしたい事もない。
ならば、ここで主からの仕事を任されるのもいいかもしれない。
この地で花畑を育てる。
それが私と主をつなぐ唯一のものである気がした。
その後無事に種蒔きを済ませ、付近を歩き回り食料に困らないことを確認するうちに、再び夜が訪れた。そしてこれがジラーチと過ごす最後の夜だった。
「また千年後に会えるといいな」
「起きたら一人ぼっち、なんてのは嫌だな」
「生きられるように努力するよ」
「じゃあ、約束しよう。千年後にボクに会いに来るように。もし遠くへ行っていても、絶対にここに戻って来て。それと、何があったか全部聞き出すから準備しておいてよ」
小さな手をジラーチが出してくる。それを指切りの代わりに軽く前足で叩いた。
「わかった。約束しよう。千年後な」
「うん。――それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
挨拶を交わすと、ジラーチの体は紫色の結晶に包まれていった。それは墓の隣に沈んでいき――残ったのは私ひとりだった。
季節は廻り次の春がやってきた。
欠かさず世話を続けたのが実を結び、ついに花が開いた。
雪のように真っ白で、小さな花だった。これが年を重ねていくと、どうなるのか。未来の絵を想像しつつ、一輪を摘み墓の前に供える。
やがて花は実となり、翌年に生を継いでいった。
十年二十年と時が経つにつれ、花は順調に成長し、墓と岩をすっかり囲む程にまでなった。
毎年育つにつれ、来年はと期待が膨らむ一方、寂しさが心に芽生えてきていた。
誰かと話がしたい。独りだけでいるのは少々辛かった。
百年が経ち、花畑は私だけで世話をするには広すぎた。しかし、
「ねえねえ、あっちまだだったよね。僕がやってくるよ」
「あっ、ずるい! 次はあたしの番だよ。ねえ、お姉さん」
水やり用の、中が窪んだ石を咥え、今にも駆け出しそうなのがコリンクの男の子。抗議の声を上げているのがゾロアの女の子。
彼らは最近になってこの地へ移り住んできたのだった。他にも何匹かこの地で生活している。
「ほら、もう一つ石はある。ふたり仲良く行ってこい」
「「はーい」」
ゾロアに石を渡すと、二匹は嬉しそうに川へ駆けて行った。そして入れ替わるように母親のレントラーがやってくる。
「騒がしくてすみませんね」
「いや、おかげで毎日退屈せずに過ごせるよ。そっちもこんな場所で暇じゃないのか?」
「いえいえ、何もないのがいいんです。穏やかで平和で、いい場所です」
「それは良かった」
水やりを忘れて川ではしゃぐ二匹の姿は平和な光景だった。
しかしその平和も二百年、三百年と経つにつれて変わっていく。
段々とこの谷に住む者が増え、ゴーリキーやドテッコツなど力自慢のポケモンは、岩や木を用いて見晴らし台や風雨をしのぐ建物を造ったのだった。
谷は賑やかになっていった。初めは誰もいない荒れ地だったのが嘘のようだ。一体千年後はどんな姿になっているか。きっとジラーチは驚くに違いない。
「お姉さんはここに来る前は何をしていたの?」
ある日のこと、イーブイやロコンの子ども達がこんなことを訊いてきた。
「私はな、人間と暮らしていたんだ」
「ニンゲン? それってなに?」
きょとんとロコンが首を傾げる。
そうか、ここで生まれた子達は知らないのか。
「人間は、そうだな……。私たちよりずっと不器用なんだ」
「不器用?」
「そう。私たちはこうして一緒に話し合い、花の世話をし、木の実を採り、仲良く暮らしていけるだろ。だが、人間はそれが上手く出来ないんだ」
「簡単なことなのに?」
「自分の利益のためなら平気で他人を傷つける。ひどい時には殺し合いにまでなる。私たちよりずっとそれが多いんだ」
「そんな……」
「だが皆がそう悪いばかりではない。主――私といた人間はいい人だった。多少雑な性格だったが、優しい人でな。今でも私の一番好きな人だよ。そして、その主と約束したんだ。花を育ててジラーチに見せると。だから私はずっとここにいる。それに、お前らのことも好きだからな」
そう言って尻尾で子ども達を包む。きゃっきゃとはしゃぐ中、ロコンが私の尻尾の隙間から顔を出した。
「じゃあこの花畑はみんなお姉さんの大切なものなんだね」
「そうだ。だからケンカして折ったり、火を噴いて燃やしたりするなよ」
尻尾から放すと、皆うんうんと頷いていた。
そうだ、ついでにジラーチのことも話しておこうか。
「もっと話聞きたいか?」
「聞きたい聞きたい!」
「よし。これも四百年前の話なんだが――」
結局その日は陽が沈むまで昔話が続いたのだった。
そして五百年が過ぎた頃だった。
開花の時期を迎え、雪が積もっているような花畑の中を、ウインディが全速力で駆けてきた。
「姉さん!」
「どうした」
両膝をついて息も絶え絶えに顔を上げる。
「向こうに変なのがいるんだ。二足歩行で重い服着て行進して。それにおかしな鉄の筒を持ってた。あれが姉さんの言ってた人間なのかな。怖くなって急いで帰ってきたんだ」
「ッ!」
嫌な予感がする。きっとそれは人間で間違いない。そしてウインディの話と昔の記憶が重なる。鉄の筒は見たことないが武器の類だろうか。
人間が武装して集団でやってくるとなれば目的は限られる。おそらく彼らはここを我が物にしようとしている。
新しい土地があると、力でその住民をねじ伏せて奪い取る。
主と暮らしている時はそんな話を多く耳にした。
だが、黙って彼らの言いなりになるだけなど出来ようか。主とジラーチと、皆と私をつなぐこの地を渡す気など毛頭ない。
まずは、皆に危険を知らせることが先だ。
「悪いが、急いで皆に避難するように伝えてくれないか。きっと奴らは――」
伝えている最中、ウインディが来た方、花畑の端で火柱が上がった。
どうやら平和的な交渉など端から考えていないようだ。
「ウインディ、早く!」
「わかった!」
頷くとウインディは居住区の方へ駆けて行ったが、すぐにまた引き返してくる。
「姉さんはどうするつもり?」
それを訊くか。
できれば知らないまま行って欲しかったが。
「ここで迎え撃とうと思う。時間を稼ぐから、早く逃げてくれ」
「出来ないよ、そんなこと」
予想通りの答えを返してくる。逆の立場だったら私だってそうするだろう。けれど、もう誰にも戦いで死んで欲しくない。私を残して死なないで欲しい。
「小さい頃から世話してくれた姉さんを置いていくなんて出来ない。姉さんが残るなら僕も残る」
「皆に危険を知らせられるのはお前しかいないんだ。最悪誰も助からなくなる。だから早く行け」
ぐっとウインディが呻く。必死に思考を巡らせ、そしてこう言ってきた。
「……わかった。でも姉さんに協力したい奴らはすぐにここへ向かうように伝える。それでいい?」
仕方ない。これ以上話が延びても危険だ。
私が頷くのを確認すると、ウインディはすぐに踵を返した。
しかし奴らの行動も早かった。
彼らはギャロップを駆り、足の炎で瞬く間に花畑を焔の海へと変えていった。町の皆が逃げるより先に回り込まれてしまう。
すぐに後ろの隊列も追いつき、先鋒と挟まれる形となる。不利なのは明らかだった。
逡巡している間に、彼らは武器の他に拘束具を取り出し始めた。
強いポケモンや見た目が良いポケモンが捕らえられ次々と連れて行かれる。抵抗する者は鉄の筒で撃たれ、殺されていった。
誰だって死ぬのは怖い。抗おうとする者はほとんどいなかった。
(姉さん……助けて!)
轡を嵌められ、首に鉄の輪をかけられたウインディが涙を流し訴えてくるが、残念ながらどうしようもない。私はまずこの状況をどうにかしなければならなかった。
取り囲むのはグラエナ三匹と、人間が三人。
これだけなら負けない自信があった。しかし鉄の筒、これが厄介だった。
中に鉄の弾を込めたそれは、一発当てるだけで生物を死に至らしめることが出来た。
仲間たちがこれで殺され、今その銃口が二丁首に当てられている。
「ほら、いい加減諦めろ。おとなしく捕まってくれたら命は助けてやるよ。誰だって死ぬのは嫌だろ」
半笑いを浮かべる男を無言で睨み付ける。今の私にはこの位しか出来なかった。
視線が気に入らなかったのか、男は私の顔を横から蹴りつける。
「なんだよその眼は!」
悪態を吐きながら、何度も顔や体を蹴り続ける。
銃を向け続けられた私は何も出来ない。
「ちっ、もういい。こいつ殺してさ、毛皮にして売っ払ってやろうぜ」
男の恐ろしい提案に身の毛がよだつ。
最悪の死に方だ。
死んだ後もこいつらに使われるなど全くもって御免だ。
それにこの地――主とジラーチとの約束の場所を離れることが考えられない。
一体私の五百年は何だったのか。こんな終わりのために生きてきたのか? ここで死ぬのか?
いや違う。
奴らなんかに私の約束を違えさせてたまるものか。
だったら――、
(ここで死ぬわけにはいかない!)
その思いが全身に再び力を宿らせる。
まだ動ける。
確信した瞬間、鉄の筒を向けられているのも構わず、足蹴にした男に向かって火を放つ。
咄嗟のことに男は判断できず炎に包まれ、そしてあっけなく倒れる。
銃を持つ残り二人が不意を突かれ呆然としている隙に、大きく右に跳躍し照準から外れる。
反応が早かったのはグラエナだ。
すぐさま私を囲み、うち一体が飛び掛かる。僅かに間を空けて残りが左右から来る。
若干身を引き一体目の狙いから離れ、体を半回転させる。
私が元いた位置には、勢いをつけた九つの尻尾があり、バットの要領で奴の腹に叩き込む。
――まずは一匹。
尻尾の勢いを殺さずにもう半回転。左のグラエナの側頭部に命中し、一撃で沈める。
そして残る一匹は、口に溜めておいた炎を遠慮なく吐き出す――大文字で仕留める。
これでグラエナ達は全て倒した。
しかし、彼らに気を取られ過ぎていた。
さあ後は人間たちだ。そう振り返ったのと、奴らの筒から煙が上がるのはほぼ同時だった。やや遅れて乾いた音が響く。
眉間を撃ち抜かれたと気付いた頃には、すでに私は倒れていた。
視界がぼやけたかと思うと瞼が閉じていく。そして私の意識は一瞬で黒に塗りつぶされたのだった。
ついに千年が経った。
見晴らし台から、地平線まで続く花畑を眺めつつ、私は彼の目覚めを待っていた。
この景色を見たらどんな顔をするだろうか。
目の前に広がる光景は、ずっと何も変わっていない。
花畑はもちろん、中央を流れる川、柱だけになった建造物、全てがそのままだった。
そして、空が橙と藍で混ざり合う頃、地面が眩く光り始めた。主の墓の隣、ジラーチが眠った場所だ。
そこから紫色の結晶が浮かび上がる。まるで千年前の逆再生のようだ。
結晶から小さな体が姿を現し、うっすらと目を開ける。すぐに私を見つけると、ふわふわと舞い降りてきた。寝ぼけ眼をこすり、鼻のすぐ先で言う。
「おはよう」
「……………………」
話したい事が山ほどあるというのに、声が出てこない。
なぜだか胸が一杯になり、瞳に滴が溜まっていく。
気が付くと私はジラーチに飛びついていた。
「え? わっ!」
驚きの声を上げるが構わない。自分でもどうしようもなかった。
「やっと……やっと会えた。……ジラーチ」
「……うん、またキミと会えて嬉しいよ。約束守ってくれたんだね。ありがとう」
ジラーチが耳と耳の間をそっと撫でる。いつか主がそうしてくれたように。
私は彼を抱き、感情に任せて涙を流し続けていた。
五百年溜まり続けた思いは、今やっと溶け出すことが出来たのだった。。
ようやく心が落ち着き、礼を言いジラーチから離れる。
「そっか、ずっとここにいてくれたんだね。でも、どうして?」
「最初は主がいる場所から離れたくなかったんだ。しかし、段々とここでの生活も悪くないと思うようになってな」
「どんな事があったか聞いてもいい?」
「もちろんだ。お前のために全部覚えているよ。長くなるぞ」
「当然。全部聞くって言ったからね」
見晴らし台に二匹並んで座り、満天の星が目に映る。
横を見れば、いつでもどうぞとジラーチがこちらに視線を向けていた。
「よし、ではまずは――」
こうして昔話が始まった。
夏の夜は短い。まだ小一時間程度のつもりだったが、気付けば空が白み始めていた。
しかし、話の方も短かった。覚えている限りの事を伝えたはずなのに、もう終わりが近づいている。
「――そして、人間たちがここを襲ったんだ」
「え……? それでどうなったの」
「奴らは辺り一面を燃やし、皆殺されるか人間に捕まっていったよ」
「……その後は?」
「見ての通りだ」
二匹で視線を花畑に移す。顔を出した陽の光が川や露に反射し、視界を幻想的に染め上げる。
「そっか……」
その後ジラーチは何も聞いてこなかった。私の方もどう続けようか迷い、お互いに黙り込む。
先に口を開いたのはジラーチだった。
「そうだ、何か願い事はない? 三つ好きな事を叶えてあげられるよ」
「願い事な……。しばらく時間をくれないか。すぐにって訳ではないのだろ?」
「うん、ボクが起きている間ならいつでも」
決まっているが今はまだ言い出せない。もう少しだけ夢を見ていたい。
「そういえば……お前は自分自身の願いを叶えられないのか?」
「ボクの?」
「ああ。何かあるだろ?」
「えっと……」
不意を突かれたように、ジラーチが戸惑う。
「ボクの願い事はボクの力では叶えられないんだ。誰かのを聞くのがボクだから。それに、そんなこと考えたことなかったよ」
「もし叶うとしたら何がいい?」
私が尋ねると、彼はうーんと腕組みをして空を見上げた。
そしてぼそっと呟いた。
「ボクも千年起きていられたらなあ……」
「ん?」
「キミと過ごせたら、って思ったんだ。そしたらまた違った今があったかもしれない」
「千年生きるのも大変だぞ」
「それでも、キミといたかったよ」
もしそうだとしたら、私はどうなっていたのか。
孤独に苛まれることもなかったのだろうか。
だが、今となっては知る由もない。過ぎ去った年は戻らないのだから。
「ボクからも一つ聞いていい?」
「いいぞ」
何を聞きたいか大体予測はつく。きっと彼は気づいている。それでも努めて自然に装った。そうしないと決まりが悪かった。
大きく深呼吸をすると、彼は真剣な眼差しで私を見つめ、緊張を帯びた声で言った。
「そろそろ本当のことを教えてくれるかな?」
やっぱりか。
息を吐き出し、逆に尋ねる。
「何時から分かっていたんだ」
「最初から何となく。だって、ボクが渡した花の種は、春の初旬に咲くものだから。夏に咲くのは変だよ」
「一日は気づかないと思ったが、早かったな」
「隠す気なんてなかったくせに」
「それもそうだ」
くくっと口の端から笑いが漏れる。
ジラーチも普段の穏やかな表情に戻っていた。
「ねえ、さっきの話、全部じゃないんでしょ」
「ああ。私が撃たれた後のことだ――」
眉間を打ち抜かれた私は、他の者と同様あっけなく死んでいった。
しかし未練の念が強すぎたせいか、魂だけは消えることはなかった。身体は死んだが精神はまだ生きていたのだ。
奴らは私の亡骸を肩に担ぎ、人間が多く待機している場所へと歩いて行った。
そこには縄で縛られたウインディやゴウカザル、他に愛玩用として売られるのかイーブイやヒノアラシが檻に入れられ、皆俯き嗚咽を漏らしていた。
奴らはそれを一瞥すると、私を地面に降ろした。たちまち人間たちの注目を浴び、わらわらと集まってくる。
「どうしたんだ、そいつ?」
「あまりにも素直に従わねえから、打ち抜いてやったのさ。毛皮にして売れば高値が付きそうだ」
見せびらかすように尻尾の付け根を掴み、自慢げに持ち上げる。
周りの人間たちも金の毛並みに惹かれ、背や腹を撫でこりゃいいと評し合っていた。特に尻尾の触り心地が気に入ったのか、触れなかった者は一人もいなかった。
しかしこれが奴らの不幸となった。
キュウコンの尻尾を触ると呪われる
昔からこんな伝承があちらこちらにあった。けれどこの人間たちは知らなかったか、忘れていたか。どちらにしろ、迂闊にキュウコンの尻尾に触れてはいけない、それを彼らは犯してしまった。特に悔恨や敵意の詰まった身体となれば、呪いの程度は相当のものだった。
奴らは二度とこの谷に現れることはなく、呪いの噂も広まりここを訪れようとする者もいなかった。
奴らが去る際に亡骸は持って行かれたが、精神はここに留まり続けた。
主との、ジラーチとのつながりを消したくない。五百年を無にしたくない。
強すぎる思いは幻を生み、偽りの花畑を創り出した。
谷の出入り口には結界が張られ、他者の侵入を拒んだ。
そうして、誰の干渉も受けることのない、『平和』な地で私ただジラーチを待ち続けた。
「――といったところだ」
これで話は全てだ。私のすることはもう何もない。
「どうして……そこまでして、花畑を?」
キミのトレーナーはいないし、ボクだって出会ったばかりの赤の他人だったのに、ジラーチはそう言った。
「私は何も知らなかったんだ」
「どういうこと?」
「私は主の事以外何も分からなかった。外の世界がどうなっているか、誰が何をしているか。全部知らなかった」
知識を得る余裕が無いのもあったが、主といること、それが私の全てだった。他には何もいらなかった。
「主の言う通り、他に何かしたい事があるのか、考えた時もあった。けれど、主と過ごす以外の生き方を知らないことに気が付いてしまった。ならば他に移る必要はない、ここにいよう、そう思ったんだ」
そして時が経つにつれ仲間が増え、この地で他の生き方を見つけることが出来た。やがてそれは私の大切なものとなっていったのだった。
しかしそれも、終わらせなければならない。
ジラーチと会い花畑を見せる、何があったか全部話して聞かせる。二つの約束は果たされた。
もう幻に生き続ける理由はない。
「ジラーチ、一つ目の願い事だ」
ジラーチは私の方を見ずに、花々を見下ろしつつ答える。
「いいよ。何かな?」
「幻を解いてくれ」
「――いいんだね」
最後の確認と言うかのように尋ねる。もちろん首を縦に振る。
「了解」
千年前に見た懐かしい光が短冊に灯る。文字が浮かび上がり、遠くの方から順に雪の絨毯が消え、元の赤茶色の土が現れる。
それにつれて、私の姿も徐々に透け始める。
「やっぱり、お別れになるの?」
「思い残すことは何もないからな」
尻尾と爪先から見えなくなっていく。これで全てが終わる。
「ジラーチ、もう一ついいか」
「……うん」
答えるジラーチに声は弱々しかった。
私が消えたらジラーチは独りになる。独りはとても辛い。
ジラーチもきっとそれはよく知っているのだろう。
目が覚めたら知らない人ばかり。遠い昔に語り合った者はもういない。千年ごとに彼はそれを、身をもって分かっている。
避ける方法がないわけではない。だが、まだそれは伝えない。
――狡いな、私は。
そんな思いを胸に秘めつつ、言葉を続ける。
「天の国があるとしたら、そこで主と会えるようにしてくれないか?」
「なんて曖昧な。それに、そういう関することは出来ないって言わなかったっけ」
「願掛けだ。いいだろ」
「本当にキミ達は変わった事を言うんだから」
文句を言いながらも、二つ目の短冊が使われる。
これで残るは一つだ。
「どうするの?」
半分以上姿の消えた私に問いかける。
答えは既に決まっていた。
「少し複雑だぞ」
「さっきのより複雑なら、逆に聞いてみたいよ」
もう驚かない、とジラーチが構える。
きっとすぐ後に、その構えは崩れるだろう。
「お前の願いを私の三つ目の願いにしてくれ」
「……え?」
何を言われたのかよくわからない、そんな表情だった。
もう一度彼に伝える。
「お前の願い事を私の願い事に。こうすれば、お前の好きな事を一つだけ叶えられる」
「それって、どういう……」
「叶えてもらうばかりというのも、こちらが申し訳なくなってくるからな。最期に恩返しくらいさせてくれ」
ようやくジラーチは我に返り声を上げた。
「そんなことダメだよ! だって――」
「駄目なものか。私がこう願ったんだ。決まりだろ」
反論を遮って、そっと諭す。
「何でもいい。千年眠らずにいたい、友達が欲しい、過去に戻りたいってのもありだな」
「……ズルいよ。そんな……最後の最後に」
「キュウコンは昔から狡賢い種族だ。狡くて当然だろ」
「でも!」
「さてと、そろそろ別れの時間だ。一つだけの願い事、大切に使うんだぞ」
主とやっていることが似ているな。ふとそんな事を思った。願い事を残して、本人は去っていく。ふたり揃って迷惑なことだ。
その主に会えるのだろうか。だとしたら私はもう何も望まない。
「じゃあな、ジラーチ」
「……うん、さよなら」
まだ何か言いたげであったが、それらを飲み込んで、挨拶を絞り出す。
やがて私の姿は全て消え、私の物語は幕を閉じた。
一人残されたジラーチは、その場を動こうとしなかった。
「こんなの残されても、どうしたらいいのさ」
三枚目の短冊を手で弄り、息を吐く。
何でも一つ叶えられる。そうキュウコンは言った。そして、自分は彼女に千年生きられたらと話した。
けれど、それは彼女といることが前提だ。独りで千年過ごして何になるというのか。
過去に戻ってやり直したとしても、彼女と自分は対等ではない。過去の思い出に浸ったまま出られなくなるのと何ら変わりはない。
どうにでもなれ、そんな感情すら芽生えてきた。
あと五日もすればまた眠りにつき、誰かの願いを叶える。その繰り返しだ。
投げやりな気になって台に背を預ける。
「ねえ、そんな所で何をしているの?」
ふと声が聞こえた。
幼い可愛らしい声。話しかけるのは誰だろう。
目を開けそちらを見ると、そこには一匹のロコンが座っていた。
「はじめまして。あなたは見たことのない種族だけど――だれ?」
きょとんと首を傾げる。挙措が一々愛らしい。
「ボクはジラーチ。千年に七日だけ目を覚ましてみんなの願いを叶えるんだ」
そう言うとロコンは、「ああ!」と大声を出した。
「知ってる! お母さんが言ってた。昔住んでた谷にはあるキュウコンがいて、ジラーチとの約束を叶えるためにずっとそこにいるって。あなたがそのジラーチなのね」
「うん、そうだけどキミは?」
「散歩してたら、ここに来れたの。今まで入ろうと思っても入れなかったのに。もし何か知ってたら教えてくれない?」
「うん、いいけど少し長いよ」
「大丈夫、ちゃんと聞くから」
「私にも聞かせてくれないか」
「……え?」
舌足らずな声に重ねて、落ち着いた低めの声が重なる。キュウコンだった。
「あれ……どこかで会ったことある?」
「いや初対面だ」
一瞬あのキュウコンかと思ったが違うようだ。それでも初めてという感じがしなかった。
どうしてかすぐに分かった。
似てるんだ。あのキュウコンに。
声も体格も、瞳の色も毛の跳ね具合まで、どれもが彼女そっくりだった。
「キミは……?」
「ああ、申し訳ない。私はずっと昔この谷で暮らしていた者だ。けれど、ある日食料を採りに出かけると、帰ってくることが出来なかった。幼い頃から世話をしてくれた姉さんや、仲間たちにはそれっきり会えず……。もし、何か知っているのなら教えてほしい」
そう言ってキュウコンは頭を下げた。
頼まれた通りついさっき聞いたことをかいつまんで伝える。
五百年前に人間がこの地を襲い、彼女や仲間を殺したこと。未練から幻想の花畑を創り出したこと。そして、たった今別れたこと。自分に願いを一つ残したこと。
ロコンは途中で夢の中へ行ってしまったが、キュウコンは最後までじっと聞いていた。
「そんなことが。姉さんや皆は……」
俯きがちに口を開き、そして黙ってしまう。それと入れ替わりに、最後のくだりだけ聞いていたロコンが無邪気に問いかける。
「あなたの願い事はどうするの? 何でも出来るんでしょ?」
実はないわけではない。
このひとたちと出会ったことは偶然でない。そう思うほどキュウコンは彼女に似すぎていた。
そう考えると、一つ望みがあった。
「聞いてもいい?」
少し躊躇ったけれど、思い切って口にする。
「ボクと……一緒にいてくれないかな?」
「もちろんいいよ! 友達が増えるのは嬉しいし」
答えは早かった。明るい声でロコンが答える。
「そんなの改まって訊かなくてもいいのに。一緒にいるのってわざわざ許可がいることかな?」
七日間の付き合いしか知らないジラーチにとっては、少なくとも普通のことではなかった。一緒に過ごしていけば、分かるのだろうか。
「実は私からも頼もうと思っていたんだ。貴方ともう少し居たい。もっと姉さんの話を聞きたいんだ」
キュウコンの言っていることは分かる気がした。
――キュウコンはボクの中に彼女の幻を見ているんだろう。
キュウコンにとって家族かそれ以上の存在になっていた彼女は、突然会えなくなってしまった。時が経つにつれ寂しさが胸に募るが、彼女は死んでしまった。けれど思いは消えずに残り、それを受け止める相手はもういない。
そこで彼女と最後までいたボクが現れた。行き場のない思いはボクを通して彼女の幻に向けられる。
そしてそれはボクも同じだ。
キュウコンと話していると、彼女と過ごしているような錯覚を覚える。このまま別れたくない、そう思った。
今は彼女と幻を通じてつながっていて、それはきっと脆くて壊れやすい。
でも時間はまだたくさんある。
少しずつ確かなものにしていけばいいんだ。
「うわあ、綺麗な光……」
短冊に灯る光を見て、ロコンが目を輝かせる。
二匹の視線の中、三つ目の願い事を念じる。
「ボクの願いは――」
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