●竜神の花嫁
ラトゥヌの子らよ、感謝せよ。季節の実り、海の恵み、暖かい住処。
それは大地、それは海、それは天空の青へ。豊かな記憶……
途中まで口ずさんだ歌をやめた。ラトゥヌの一族に伝わる神話の歌。美しい声は潮風に吸い込まれ、波の音に消されて行く。
海に浮かぶ金色に輝く夕日を見つめた。遠くにはここからも見えぬ異国の地。夕暮れの風が穏やかに髪を揺らした。いつもと変わらない景色。大きな海に囲まれた島から見える夕日は、きっと何千年も前から同じで、何千年経っても変わらないのだろう。
ここに住む少数民族であるラトゥヌ。神々に祈りと感謝を捧げ、伝統を守り生きて来た。様々な穀物を恵む大地に、たくさんの魚や貝を分け与えてくれる海に。そしてそれらになければならない日の光と雨をもたらす天に。
「アスリナ!」
名前を呼ぶ声に振り向いた。やわらかくて穏やかな声。小さな頃からずっと知ってる優しい声。いつもより嬉しく感じるのは気のせいではないはずだ。
「オスレム!」
いつもより派手で、穏やかな海と美しい空の色をした衣装。空から舞い降りる竜の再来を思わせる。一族の伝統である風のような衣装を纏った彼の胸に飛び込む。
「体に障るよ。花嫁がこんなところにいたら」
「平気よ。明日からもうオスレムとずっと一緒だもの。一人になるのは今日が最後よ」
赤い花を咲かせたような花嫁衣装を愛する人のために着ることが出来る。その幸せをかみしめながら抱きしめる。
一族の結婚には族長の許可が必要だ。その族長の娘であるアスリナの結婚相手に名乗り出たのは、優秀な狩人ばかりであった。陸の獲物、海の獲物、どちらも狩るもの。アスリナの夫となれば、次の族長となるのは確実であるから、皆がこぞって許可を申し出た。
その中で神官であるオスレムが名乗り出た時、誰もが無理だろうと言った。アスリナと幼い頃から一緒に育ったというだけの、神事を行なうものでは狩人に対抗できない思われたのだ。しかしオスレムの彼女に対する情熱は他の誰よりも熱かった。神事の取り仕切りは族長が行なうのであるし、普段から族長の手伝いをしているのだから一番ふさわしいと。ついに族長はオスレムの情熱に折れて許可を出した。
明日から二人は夫婦となる。花婿から永遠の絆を約束する宝玉を花嫁に送り婚姻が成立する。そして二人で生きていくことを一族に知らせるのだ。
「ラトゥヌの地じゃなくても?」
オスレムがいじわるく聞く。少し顔を伏せてアスリナが彼から離れた。
「もうラトゥヌだけで生きて行く時代じゃないわ。あのホウエンに出ていった人たちもいる。言葉も文化も違うなんて言い訳にしかならない」
海の向こうの大地は、ホウエンという国だ。海の彼方にあると言われていた陸地。荒波に囲まれた島々からは、そこまでたどり着ける船を作ることが出来なかった。しかしホウエン人の技術が進歩し、ようやく交流が生まれて来たのだ。ただし、一方的に。
出会いは友好的な態度ではなかった。けれど文化的に遅れをとっているラトゥヌはそれに従うしかない。ホウエン人の持つ武器も、従えている獣たちも、何もかもレベルが違う。
閉じた世界にいたラトゥヌにとってホウエン人は全てが新しく、全てが脅威だ。族長の側にいながら、アスリナはそう思う一方で、もうラトゥヌだけで生きて行く時代ではないと感じていた。決してラトゥヌの全員がホウエン人を受け入れているわけではない。けれどもホウエン人に真っ向から反抗するのは得策ではないことを知っている。
「最初はとても威圧的だったけれど、最近は僕もようやく共に生きていけるかなって思えて来たよ。族長が僕を花婿にしてくれたのはそんな意味も込めてだと思う」
「そうね。オスレムの穏やかな物言いなら争いが始まらないわ」
族長の世代ならば、慣習を守って行くだけで良かった。しかし次の族長にはラトゥヌの文化を守り、ホウエン人と生きて行かなければならない。ラトゥヌを新しく導くことが、二人には求められている。
夕日も海の向こうへと消えて行く。残った赤い光が、西の空を染めていた。二人は空の神への感謝の言葉を唱えた。
かがり火が灯る。いつもより明るく燃え上がっていた。主役たちは皆が待つところへと戻っていく。
婚姻を神々に認めてもらう。天空に住むと言われる龍神、ラトゥヌの先祖をこの地に導いた竜神レックウザが祝福する様子を描いた舞が開かれる。
竜の舞と呼ばれたそれを今までの感謝とこれからの生活の無事の祈りを込めて、花婿であるオスレムは盛大な囃子と笛の中を風のように舞った。竜神は今では誰も見たことがないけれど、今のオスレムのように優雅に舞い、力強く飛ぶのだろう。
いつ見てもオスレムの踊りは美しい。本当の竜神が降りて舞っているようだ。今まで何度か竜の舞を見て来たが、オスレムの踊りが一番好きだ。
花嫁が竜の手に導かれる。竜は花嫁を迎え、共に空へと舞うために。たくさんの一族全員が祝福する中、アスリナは愛するオスレムと共に風となる。笛の音、太鼓の響きは聞こえない。見えるのはオスレムの表情、感じるのは彼の舞。
長いこと踊っているはずなのに、オスレムの息は切れるどころかますます動きが機敏になっているように感じた。思わずアスリナの方が音を上げてしまう。すると彼は肩を抱く。気付けば笛の音が高くなっていた。終わりを告げる音だ。オスレムはそのままアスリナを抱きしめた。
舞の終わりを合図する太鼓が鳴る。それと同時に族長が婚姻を祝福する詩を読み上げる。
「レックウザ様に認められ、これからの二人に天空の祝福があることを」
アスリナは少しオスレムに抱かれて息を整えた。そして彼は懐から宝玉を取り出す。かがり火に照らされて、琥珀色に輝いている。マレリアトナと呼ばれる美しい宝石だ。照らし出す光の色によってその色を変える。ラトゥヌの花婿が花嫁に愛の証として贈るもの。
アスリナが受け取ったマレリアトナは彼女の手の中で輝いていた。しっかりと愛の証を握りしめる。
「アスリナ、これは父親として言うが、しっかりとオスレムを支えなさい。母さんが支えてくれたからこそ、こうしていられるのだ」
族長はそれだけ言うと、他の仲間たちとチイラで作られた酒を飲み交し始めた。次々に祝福の宴へと変わっていく。オスレムもアスリナも、同じようにチイラ酒を飲み始める。
採れたての魚を使った料理、木の実の酒、潮風に強い野菜のスープ。二人は好きな料理を楽しみながら、友達や世話になった人々に挨拶にまわる。からかわれ,激励され、オスレムはその度に穏やかな笑顔で答えた。そしてアスリナはこの人と一緒になるのだという思いを強くしていった。
二人で幸せな未来を築いていく。それはきっと大変だけど、この人となら……。
楽しい時間はあっという間で、夜も更けていた。本気で竜の舞を踊った後なのだから疲れたのだろう。オスレムは夜空を見上げると、まだ見えないはずの星が輝いていた。
「アスリナ、そろそろいいかな?」
眠そうにしているアスリナに声をかける。彼女も疲れたのだ。
「そうね。明日の朝になるまで起きてられないかも」
「無理しないで。明日もまだ続くのだから、今日は休もう」
そのまま外で寝てしまいそうな彼女を寝床まで連れていく。横にしたらすぐに眠ってしまいそうだったが、オスレムに触れられるとその手に重ねた。
聞いたこともないような悲鳴にオスレムが飛び起きる。アスリナも目をうっすらと開けて体を起こした。
「見て来る。アスリナはここにいて」
軽く着ているものを直し、外へゆっくり出て行く。しかしオスレムの手はそこで止まってしまった。
鉄の匂い、暁の弱い光にもはっきり見える赤。倒れているのはみな知ってる顔の……。体を貫いているのは柄の長い槍と銀色の刃。
「動くな!」
オスレムののど元に突き出される長い槍。元から動けなかったオスレムは敵に従う他なかった。
「抵抗する殺す」
ラトゥヌの言葉ではない。ホウエンの言葉だった。だとすればこれはホウエン人がこんな惨事をしたと考えるのが妥当だ。しかしなぜこんなことを。制止されたまま、オスレムは真っ白になりそうな頭を必死に動かした。
「そこどけ。中見せる」
言葉は理解できる。けれどここを動くわけにはいかない。しかし抵抗すれば槍が喉を貫くだろう。
「私以外いない」
アスリナは声を張って出て来た。服を着直して、しっかりと昨日と変わらない。堂々と槍を突き出すホウエン人を睨みつける。
「貴方たちホウエン人……どうしてこんなことを、なぜ!」
「黙れ。黙らないお前殺す」
アスリナにも容赦なく矛先を向ける。族長の娘とあって怖がる様子がない。オスレムはアスリナの腕を掴んだ。危険だと。沈黙の言葉を理解したのか、アスリナはそれ以上口を開くことはなかった。
「こいつら連れていく」
仲間のホウエン人にそう言っている。なぜこんなことをしたのか解らないまま、二人は武装しているホウエン人たちに従った。
日差しが強くなって来た。空には雲一つない。
本来なら今日も結婚を祝う宴であったはずなのに。目の前の光景は血にまみれた地獄だった。倒れているのは勇敢にも戦った狩人たちだった。抵抗しないものはこうして広い場所に拘束されている。
「アスリナ、オスレム。二人とも無事か」
族長がみんなより前に出されている。体のあちこちに痣や小さな切り傷が見えた。アスリナが思わず駆け寄ろうとすると、ホウエン人は彼女の髪を引っぱり制止する。そしてもう一度、動くなとホウエンの言葉を大きな声で発する。
「ラトゥヌ、おまえら弱い。ホウエンの下につけ」
ホウエン人のリーダー格は冷静に言う。族長は冷静な顔でホウエン人を見ていた。
「どういうこと? なぜそんな……」
ラトゥヌたちがざわつく。ホウエンの言葉が理解できないものは、泣きそうな顔で座っていた。アスリナもオスレムも座り、拘束されながらもホウエン人を睨みつける。
「なんだおまえ」
アスリナと目が合ったホウエン人が近づいて来る。他のラトゥヌと比べて華やかな服を着ていることがさらに目立ったのだろう。それでも睨みつけたままのアスリナの頬を素手で叩き付けた。
「ラトゥヌ人黙れ」
ラトゥヌがざわつく。それをきっかけに子供が泣き始めた。うるさいと子供の首根っこを引っぱり、銀色の刃を体に深く差し込んだ。新たな血だまりを作り、声にならない声で子供は泣き続ける。母親がかけよる前に、ホウエン人はさらに長い槍を母親の胸に突き刺した。
アスリナが上半身を起こし、ホウエン人を見た。殴打された頬が赤く、熱病のように熱い。
「この娘見せしめにやれ」
ホウエン人たちがアスリナを取り囲む。何をされるのかとアスリナは見上げた。緩く着直しただけの赤い花嫁衣装をホウエン人は乱暴に掴む。
「なにするのよ!」
アスリナの抗議は宙へ消える。切り裂かれ、美しかった衣装は布切れへと変わっていた。アスリナの体は外気にさらけ出される。
「何をするんだ!」
オスレムが叫んだ。縛られていない足で立ち上がり、アスリナに手をかけるホウエン人に体ごとぶつかる。
「こいつ!」
「オスレム、やめろ」
「オスレム!?」
様々な声が混じる。それでもアスリナを庇うようにオスレムが彼女とホウエン人の前に割り込む。彼の顔を見た時、アスリナは安心した。ホウエン人に囲まれ、衣服を剥がされた中で唯一頼れる人。目が合い、アスリナは笑った。
アスリナの太腿に生温い感触のものが流れる。オスレムの顔が苦痛にゆがみ、逆流した血が口からあふれる表情へと変わる一部始終をはっきりと見た。彼の体に貫かれる槍が引き抜かれ、吹き出す血がアスリナの体を染める。
「オスレム……? オスレム!?」
なんとか苦しそうに息をするオスレムの体をホウエン人が蹴り飛ばす。土に彼の血と体液がしみ込んだ。青かった花婿の衣装は赤く染められる。
「オスレム!?」
穏やかで幸せであったはずなのに。彼の妻となり、ラトゥヌの伝統を引き継ぎ、ホウエンと生きていく……。全ての未来を打ち壊され、アスリナは声が枯れるほど叫ぶ。
「オスレム……オスレム!」
ホウエン人がアスリナの体を引きずり出す。弱くなっていく彼の呼吸。ホウエン人たちに組み敷かれ、壊れたかのように結ばれたばかりの伴侶の名前を呼んでいた。
アスリナの体を貪り始めたのをきっかけに、他のラトゥヌの娘も標的となった。年令関係なく、次々にホウエン人たちは食い荒らす。狂乱の宴に親や夫は抗議するが、ホウエン人は容赦なく黙らせた。母親を奪われた子供でも例外はなかった。
悲鳴と血の臭いが海風に混ざった。力のないラトゥヌは、力のあるホウエンに食い物にされる。友好など、異邦人には微塵もなかったのだ。
「約束が違う!」
族長が叫ぶ。ホウエン人のリーダー格の男が弱々しい呼吸をするだけの子供から手を離した。
「約束? なぜラトゥヌのような下等民族と約束する。保身のためお前、皆売った」
生き残ったラトゥヌたちが一斉に族長を見る。この惨事を引き起こしたのは族長の陰謀だというのか。
「嘘を! 皆を無事にホウエンに移住させるなら命は無事に助けると! 住居も約束すると言ってたではないかっ! だから誰にも言わず、酒に眠れる薬を入れたというのに!」
「知らぬ。それとも約束した証拠、あるのか」
ホウエン人は笑った。約束があったことは確かだった。しかしそのことを知っているのがラトゥヌでは族長しかいなかったこと、約束の証を明かさなかったことがホウエン人たちの傍若無人を許していた。
「お……とう、さん?」
うつろな目でアスリナはつぶやく。何人目かの男に組み伏せられながらも、はっきりと族長の言葉は聞こえていた。全ての幸せが壊れたきっかけを作ったというのか。
「オス……レム……」
父親は次なる世代のために、穏やかな交渉を求めた。それがホウエン人の罠と知らずに。それを誰かに相談してくれれば。信じていなければ……。
アスリナは口の中で言葉を唱える。ラトゥヌに伝わるまじないの言葉。視界も感覚も全て遠のいていく中で、言葉だけがはっきりと出てくる。
天空の神、レックウザへの最期の願いを唱えた。ホウエン人越しに見える青い空の彼方にいるはずの竜神に、ありったけの思いを込めて。ホウエンへの憎しみ、ラトゥヌへの思い、オスレムへの思慕。
「レックウザ様……途中まで結ばれた竜の花嫁を救ってください……」
アスリナの目から光が消える。ホウエン人は開いたままの目を気にすることもない。
風に流されるだけのアスリナの髪に一つ雨粒が落ちる。また一つ雨粒が落ち、それを合図に滝のような雨が降り始める。同時に目も眩むような閃光の直後に耳を切り裂く轟音が辺りに響いた。
ホウエン人はおろか、ラトゥヌですら驚いた。こんな大雨と雷など見たことがない。少し前も見えないほどの雨の下、唖然と空を見上げた。
ホウエン人が倒れる。雷が直撃し、煙をあげていた。仲間がかけよろうとすると、すぐに二発目の雷がホウエン人に降り注ぐ。
「レックウザ様の怒りだ……」
「アスリナの呪いだ」
「オスレムの復讐だ」
ホウエン人を狙ったかのように直撃する雷に、ラトゥヌたちがざわめく。ほとんど雨の音に消されてはいるが、みな空を見ていた。
「レックウザ? ラトゥヌ、なに隠してる」
先ほどの威勢とは真逆に、ホウエン人は震える手で槍を突きつけて来る。どんなに力が強くても、神の脅威にはかなわないのだ。
「天空のレックウザ様がお怒りになっている。それだけだ」
強い轟音と共にホウエン人がまた倒れる。目の前にいたラトゥヌも無事では済まない。
ラトゥヌの一人が願うように歌いだす。そしてまた一人歌い出す。
「天に帰るラトゥヌの子」
「踏みしめた大地、恵みの海、美しい空の記憶」
「かすみし者は心にきざみつけることを望む」
「共に生きた思い出と」
「全ての夢はもう一つの現実」
「それを忘れるべからず」
死者の怒りをレックウザが叶えたと信じ、ラトゥヌたちは死を悼む詩を歌う。その言葉に救われていくかのように、雨脚は弱まり、轟音が遠ざかる。分厚い雲から再び太陽が顔を出した時、空に影が見えた。天空を自在に飛ぶ緑色の生き物が顔を出したのだ。
「レックウザ様……?」
「レックウザ様だ!」
「レックウザ様がまた助けに来てくれた」
信仰していた竜神が現れた。太陽の光を背に上空を舞う。ゆっくりと、そして力強く。二、三回ほど旋回し、大空に咆哮を轟かせる。空気が震え、島の木々もざわついた。
倒れているラトゥヌが淡く光る。そしてレックウザの元へふわふわと飛んでいく。レックウザのまわりを囲むように集まった。一つ、また一つと光は消え、雲のような羽と青空のような体毛で飛んでいく。島の上をくるくると飛んでいるものも、いつしか空と海の間へ消えていった。
一際強くて青い光と、紅色の光が寄り添うように飛んでいく。レックウザは両目をゆっくり閉じて、それらを迎え入れた。二つの光は鳥のような翼と、手を持ち、風の抵抗を受けにくい形へと変化していった。青い空と、紅い花のようだった。
紅い花のような鳥は風を受け流しながら島へと降りて来る。そして大雨で流された泥の中から一つの宝石を取り出した。生前、オスレムがアスリナに永遠の愛の証に贈ったマレリアトナ。
「アスリナ!」
族長は叫んだ。紅い花のような鳥は振り向く。
「アスリナ……許してくれ……」
そのまま風に乗って大空へと舞う。青い空のような鳥が待っている大空へ。そして二匹は確認しあうかのように見つめ合うと、空の彼方へと消えていった。
ラトゥヌたちは全員ホウエンへと連れて来られ、きつい労働を強いられながら、時と共にいつしか文化は消えていった。子孫ですらもうラトゥヌであることを知らない。
歴史を紡いできた島の名前すら忘れられ、今では南の孤島と呼ばれている。そこには、当時のホウエン人が激しく降る雨と雷に恐怖し、その時に唱えたラトゥヌの詩を残したと言われている。長い時の間に失われ、一部が大きな石に刻まれているのみだ。
けれど彼らの伝承や竜神レックウザの名前はそのまま受け継がれた。ラトゥヌの言葉も形を変えていくつか残されている。
空を見上げて、青い竜が飛んでいたらラトゥヌオスレム。紅い竜が飛んでいたらラトゥムアスリナ。ホウエンを飛び回るポケモンだと。
その名前はいつの時代からか訛ってラティオス、ラティアスと呼ばれるようになっていった。
打ち寄せる波の音が優しく反響している。風に冷たさが残る季節に、二つの人影があった。
「昔々、ホウエンとラトゥヌという国のお話でした」
一つの話を語り終える女性と、それを真剣に聞いている男の子。迷子のようだった。親が迎えに来るまで、話をしてあげようと、知っていた昔話を語る。子供でも分かりやすく、簡潔に。
「りゅうのおよめさんかわいそう……」
男の子は泣きそうな顔をしていた。大丈夫、と女性は声をかける。
「レックウザ様が助けてくれたのよ。だから今もどこかで幸せにしているわ」
「ほんと?」
「ええ、本当よ」
男の子の表情が明るくなる。子供らしい、あどけない笑顔だ。思わず女性も釣られて笑ってしまう。
「あっ」
男の子の視線がそこに集中した。宝物を見つけたかのようだ。
「おねえさんのもってる石、きれいだね!」
男の子が目を輝かせて見ているのは、首から下げている玉。ガラスのようだが、真珠のようにも見える。小さいけれど、その輝きは他の宝石に負けてはいない。
淡く虹色に光るそれを首から外した。手に持って、男の子と目線をあわせた。
「これはマレリアトナ。ホウエンの言葉だとね……」
手の中で輝き続ける宝玉に男の子は目を奪われていた。
「こころのしずく。私の愛する人からの贈り物よ」
「あいするひと?」
反応するように男の子がじっと見て来た。優しく微笑む。
「そうね。貴方も大人になって、いつかはとても大切な人ができて、人生を共にするの。そんな人のことを愛する人と呼ぶのよ」
「ボクにもできるかなあ?」
「大人になったらできるわ。それまで貴方は一生懸命遊んで、一生懸命食べて大きくなって」
男の子の頭を撫でる。難しい話で理解していなそうな顔をしている。それに愛なんていうものよりもこころのしずくの方が興味津々のようだ。それも仕方ない。まだ彼は子供なのだから。
愛の意味が今は解らなくても、いずれ解るようになる。人はみなそうやって成長していった。やがてあの子も大人になり、愛する人と出会い、生きていくのだろう。
こころのしずくを食い入るように見ても飽きないようだ。触っていいと言われたら、大事なものを持つようだった。太陽の反射で、違う色を見せるこころのしずくの虜になってしまっている。
ふと遠くから名前を呼ばれ、男の子は振り返った。
「行くぞ!」
「まって! おねえさんありがとう! こころのしずく、すっごいきれいだった! またみせてね!」
男の子は丁寧に返すと、ぺこりと一礼した。そして親と思われる人物のところに走っていく。親子は手をつないで、楽しそうに人ごみの中へと消えていった。
「何を話していたの?」
ふわりとした風が肩にかかる。そのまま体を預けてそっと目を閉じた。
「私たちの歴史。もう二度と繰り返さないように、誰もが幸せであるように」
やや上に視線を上げる。あの時と同じ緋色の優しい眼差し。
「そうだねラティアス、それがレックウザ様に助けていただいた私たちの使命だと思ってる」
「ええラティオス。これからもずっと、私たちは一緒よ」
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