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初版公開:2012年12月4日


●確かに恋でした

 久々に訪れたトクサネの家に、彼はいなかった。
 ドアを開けると埃が舞った。けほけほと咳をしながら、部屋の奥に入る。もう暫く手が付けられていないであろうガラスケースは溜まった埃で黒ずんでいて、その奥から、彼の集めた珍しい石があの頃と変わらない輝きを放っていた。
 部屋の中心に置かれた机に目をやる。色がくすんだ紙と、灰色の埃をかぶったモンスターボール。「あの頃」から、誰の手も加えられていないのだろう。

 忘れもしない一年前。彼――ツワブキダイゴは、突然リーグから姿を消した。

 それはあまりにも唐突だった。彼は確かに、ハルカが自分を打ち負かし殿堂入りする姿を見届けていた。
満足げで達成感に満ちた彼の顔を、ハルカは一生忘れないだろう。彼が自分を見つめてくるその目は、とても暖かく、慈愛の色を湛えていた。

「さすがだハルカちゃん、君は本当に素晴らしいポケモントレーナーだよ!」

 その言葉が、どれだけハルカにとって嬉しかったことか! 手持ちのポケモンは殆どが瀕死、残ったポケモンの体力もあと僅か。正しく、満身創痍だった。
 そうしてやっとのことで掴んだ勝利、その感動は言葉で表すにはあまりにも大きすぎた。ダイゴのメタグロスが倒れた瞬間、足の裏から湧き起こった爽快感が、体全体を貫いて頭からすぽん、と抜けた。ぞくぞくした。自分はやったのだ、という実感が胸をいっぱいにした。
 そんな達成感でふわふわした体に、ダイゴのこの言葉は追い打ちに近かった。こんなに強い人に認めてもらえた。褒めてもらえた。嬉しくないわけがなかった。

 もう一度褒められたくて、家を出てからまたリーグに来て四天王に挑んだ。軒並み強くなった彼らに苦戦しながらもなんとか四連戦を勝ち抜き、長い階段を駆け上がって遂に最後のドアの前に着いたとき。体を動かしたせいか、それとも精神の高揚のせいか分からぬ胸の高鳴りを必死に抑えながら、彼女はドアに手を掛けた。
 これで、会える。また会える。また褒めてもらえる。期待に胸を膨らませて駆け上がった階段の先に、彼は、いなかった。

「……いらっしゃい、ハルカちゃん」

 代わりにそこにいたのは、あの強大なポケモンと対峙したときにはルネシティジムのジムリーダーだったはずの、ミクリだった。
 どうして、という言葉は声にならず、息だけ漏れた。肩から鞄の紐がずり落ちた。

「驚かせてすまないね。ダイゴは、……色々あって、ここにはいられなくなってしまったんだ」

 彼が嘘を吐いているわけではないというくらい、混乱状態のハルカにもすぐに分かった。
 嘘だと思った。思いたかっただけだった。現実は刃になって彼女の幼い心に突き刺さる。
 震える手でボールを握りしめた。ここまで来たのだからバトルするのはトレーナーとしての礼儀。たとえどんなに辛いことがあっても、バトルの相手に背中を見せてはならないと父親から深くしつけられていた。振りかぶったところで、動きが止められた。ミクリが肩に触れたからだった。

「今日はもう帰るといい。そんな状態の君とは戦えないよ」

 困ったような、悲しげな瞳が真っ直ぐハルカの目を見た。膝からどさりと崩れ落ちたハルカの体を、ミクリがそっと受け止める。力なく左手から滑り落ちたボールが、落下した衝撃で開いた。呆然自失としている主人を、転がったボールから出てきたラグラージが何も言わずに眺めていた。

「家まで送っていこうか」
「大丈夫です、帰れます。すみませんでした」

落としたボールを拾い上げ、ずり落ちたカバンの紐を背負い直し、おどおどとしているラグラージをボールに戻すと、ハルカは大きく頭を下げた。
階段を下りる。足元がふわふわした。まるで夢みたいだった。夢だったらどんなにいいだろうと思った。このまま、この長い階段を転がり落ちてどこかへ行ってしまいたいくらいだった。

 家に帰ると、母親がテレビを見ながら洗濯物を畳んでいた。玄関のドアが開いたのに気付くと、彼女は振り返って驚いた顔で言った。

「ハルカ、どうしたの!」

畳みかけのTシャツを投げ出して、母親がハルカに駆け寄る。慌てふためく母親の姿に、ハルカの方が驚かされた。自分は、そんなに辛そうな顔をしていたのだろうか。

「何かあったの、言ってごらんなさい」

 口を開いた。言葉は音にならなくて、かぷかぷと息だけが漏れた。

「……そう、分かったわ。今美味しいお茶を淹れるから、座って待ってて」

 一体何が分かったのか分からなかった。肩を掴むようにしてハルカをソファに座らせると、母親はキッチンに立ってやかんに水を入れた。コンロの火が付く音がして、換気扇がごうごうと鳴り始める。なんてことのない、至って普通の日常だ。それすらも非日常のように思われた。心臓が体から離れて、ぽっかりと浮いているかのようだった。
 そのまま、体ごと浮かんでいってしまいそうだった。何だか怖くなって、ソファの布をぎゅっと掴んだ。

「どうぞ。熱いから気を付けてね」

 左手ではソファの布地を握りしめたまま、右手でマグカップを手にした。ふうふうと吹くと、薄いベージュ色の水面が丸く波打つ。一口飲むと、すうっと心臓に流れ込んできて、ひょいと体の中に心臓を戻していった。いつの間にか、強張った左手も布を手放して、だらりとソファに横たわっていた。

「落ち着いた?」

 母親の問いかけに、ただ頭をこくりと一度振って頷いた。彼女は表情の和やかになった娘に笑いかけると、自分もカップに口をつけた。

「今日の夕飯、何にしましょうか」
「ハンバーグ」
「分かった、ハンバーグね。買い物、ついてくる?」
「うん」

 立ち上がった体は、先ほどまでとは違ってしっかりと大地を踏みしめていた。一歩、また一歩と足を進めても、もうふわふわと浮いたりしない。踵がフローリングを叩く音が、いつもよりも低く響いた気がした。

* * *

 その次の日から、ハルカは急に暇になった。チャンピオンを負かした。旅は終わった。図鑑の完成という目標も立てようとすれば立てられたけれど、どうもそんな気にはなれなかった。船で行った先にバトル施設があると聞いたけれど、そこで強くなったって何になるのか分からなかった。
 家にいても退屈だが、どこへ行こうというあても、何をしようというあてもなかった。麗らかな春の日差しの下、ハルカはミシロタウンの真ん中で、何をするでもなく、ただ空を眺めていた。

「ハルカ」

 聞き覚えのある声に、ゆっくりと振り返る。

「パパ、どうしたの」

 そこには、モンスターボールを手にしたハルカの父親、センリの姿があった。

「久しぶりに、バトルをしないか」

 もう一週間ほど、モンスターボールに手を触れていなかった。バトルなんてする気になれなかった。久しぶりに覗き込んだボールには、今か今かと出番を待っている手持ち達。
 最初のパートナーのラグラージ、初めて自分で捕まえたグラエナ、ミツルに憧れて三時間かけてやっと捕まえたサーナイト、デボンの社員に貰ったスーパーボールで捕まえたオオスバメ、サイクリングロードの下で出会ったライボルト、初めて石を使って進化させたキレイハナ。
 ポケモンが嫌いになったわけじゃない。好きじゃなくなったわけでもない。この子たちは、大好きだ。

「いいよ」

 ハルカの返事を聞くと、センリは満足げに微笑んで踵を返し、歩き始めた。インターバルを取るように、ハルカも立ち上がって歩を進める。二人のボールに手を掛けるタイミングが一致した。

「ラグラージ、いってらっしゃい!」
「いけ、ケッキング!」

 数日ぶりにボールから出たラグラージは、一週間前と変わらぬ闘志に満ちた姿でそこに立っていた。相手のケッキングの放つ重圧にも屈せず、敵をまっすぐに捉え、睨み付けるような眼差しで対峙していた。

「ケッキング、からげんき!」
「ラグラージ、じしん!」

 ケッキングの攻撃をまともに食らったラグラージの体が、ふらりと傾いた。ああ、負けてしまう。絶望の色が目の前に広がったその瞬間、ラグラージは体勢を立て直すと、ケッキングめがけて全身全霊をかけて地震を放った。

「もう一度、じしん!」

 ケッキングが怠けている隙にもう一度、同じ技を打ち込んだ。地鳴りがひどい。砂埃が目に入って、思わず目を閉じた。勝敗の行方が全く見えない。
 目を開けなくちゃ、と思った。それでも、心のどこかでは、目なんか開けなくたって勝敗が分かる気がした。

 地鳴りが止んだ。数回目を擦ってゆっくりと開けると、想像通り。

「さすがだ」

 センリはそれだけ言うと、倒れたケッキングをボールに戻した。そうしてボールを腰に付けると、ハルカの方へ向かってゆっくりと歩き出した。どうやら、もうバトルは終わりのようだ。ハルカもラグラージをボールに戻すと、センリの方をまっすぐに見た。
 二人の距離が、人一人分程度まで縮まった。センリは何も言わずにただ右手を上げると、その手でそっとハルカの頭を撫でた。

「強くなったな、ハルカ」

 久々に感じた父の手は、大きく、温かく、優しかった。
 どこかくすぐったかった。嬉しかった。けれど、「あの時」の嬉しさとはどこかが違った。父親だってダイゴだって強い大人であることには変わりがないのに、だ。一体何が違うのか、その時のハルカにはちっとも分からなかった。

「ハルカはもっと、自信を持っていいんだ」

 父親のその一言に、ああ、何かを勘違いしているな、とはすぐに分かった。ポケモンバトルに対して自信がなくなったわけではなかった。それならば、自分がバトルをしなくなった理由は何だったのだろうか。

 ダイゴがいなくなったからだろうと思っていた。しかし、改めて考え直してみると、それが本当に理由だったのか、ハルカには明確な答えが出せなかった。ダイゴがいなくなった日から、既に半月が経過していた。

「ママ、私、また旅してくる!」

 その答えを見つけ出すには、またポケモンに触れるしかないと思った。そうと決まってからは話が早く、エントリーコールを片っ端からかけ、各地のトレーナーやジムリーダーに再戦を申し込んだ。
 道路のトレーナーは以前よりも強くなっており、より白熱したバトルになった。ジムリーダー達も軒並み修行を積んでいたようで、バトル中にひやりとすることも多々あった。それでも、この手持ち達とするバトル一回一回が、ハルカにとってはきらきらと輝く宝石のようだった。

 フウとランに再戦を申し込んだときには、もちろんトクサネまで飛んだ。久々に訪れたトクサネには、あの時と変わらぬ時間が流れていた。
 ジムに向かうまでの道のりで、ダイゴの家が見えた。見ないふりをして下を向くと、ハルカは一目散にジムへと駆け込んだ。旅に出てから、一ヶ月ほど経ったある日のことだった。

* * *

 旅の途中である日、ふと気にかかったことがあった。ルネシティジムについてだ。
 ミクリがチャンピオンになってしまってからは、一体誰があのジムを守っているのだろうか。ルネシティジムの現状を知るべく、ハルカはカルデラの街へと飛んだ。

「ああ、ユーが! ミクリから話は聞いていますよ」

 それが、こんなテンションの高いダンディーなおじさまになっているだなんて、どうしたら予想できただろうか。

「私はアダン、ミクリの師匠です。元はこの私がジムリーダーをしていたところを彼に任せたのですが、ちょっとしたリーズンがありましてね。こうしてカムバックしてきたのですよ」
「は、はあ……」

 旅を続けていれば様々な人間に出会う。ハルカだって、今まで個性的な人間には何人も出会ってきた。だからといって、個性的な人間に慣れたわけではない。今回も今回とて、こんな反応しかハルカにはできなかった。

「ユーはもうこのレインバッジを手にしていますから、ジム戦のルールにのっとってバトルをする必要はありません。私は、本気で戦わせていただきましょう」

 先ほどまで笑っていた目元が、急に真剣になった。その瞬間、周りの空気がぴいんと張ったのを、ハルカは全身で感じた。

「はい、宜しくお願いします」

 本気、という言葉通り、アダンのポケモン達は今までのジムリーダー達のそれよりも高くハルカの前に立ちはだかった。水タイプが優秀なタイプだということを差し引いても、余りある攻撃力、耐久力、そして何よりトレーナーの判断力。自慢の手持ち達が、一体、また一体と倒れていく。
 遂に、ライボルトが倒れた。フィールドに叩きつけるように降る雨はつい先ほど降り出したばかりで、まだ暫くは止まないだろう。素早さの上がったキングドラに、自分の手持ちが蹂躙されていた。

 ハルカはゆっくりと目を閉じると、最後のモンスターボールに手を掛けた。
 五体のポケモン達は、非常に良く頑張ってくれた。相手のキングドラもかなり疲弊している。あと一回でも、この子が攻撃を加えてくれればまだチャンスはある。お互い残りのポケモンは一体ずつ。やるしかない、とハルカは目を開いた。

「頑張って、サーナイト!」

 高らかに放たれたボールから、最後の一体、サーナイトが飛び出した。相手に圧倒的に有利なこの雨のフィールドで、彼女はただ、自分が戦うべき相手をじっと見つめていた。

 そういえば、あの時もそうだった。
 チャンピオンとのバトル、残った最後の一匹がサーナイトで、タイプ相性も決してよくないメタグロスに挑んだ。その時もこんな風に、あと一回当てた方の勝ち、という状況で、綱渡りのようなバトルを楽しんでいた。

「キングドラ、みずのはどう!」

 アダンの声が響いた。今は考え事などしている場合ではない。
 ハルカはフィールドの中心を睨むと、全身の力を振り絞り、サーナイトに向かって大きく叫んだ。

「サーナイト、サイコキネシス!」

 雨の中で素早さが上がったキングドラには、普通のポケモンで先手を取ることは難しい。しかし、トレースの特性を持つサーナイトなら、張り合えるかもしれない。賭けに近かった。
 威力の上がったみずのはどうを、サーナイトが一発耐えられるかも分からない。その上、先手を取れるかどうかも分かったものではない。ハルカはフィールドの中央を、何も言わずにじっと見つめていた。

 相殺されたかのように見えたサイコキネシスの波とみずのはどうのなみが、眩い光を立てて消えた。正に一瞬の出来事で、どちらか先とも分からなかった。閃光のせいで、目がちかちかする。
 それでも確かに、ハルカのサーナイトはフィールドに立っていた。倒れ込んだキングドラを見つめるようにして。
 勝ったのだ、と気付くまでには、数秒の時間がかかった。

「エクセレント! 素晴らしいバトルでした」

 すっと差し出された右手を両手で取った。その瞬間、ぱあっと視界が明るくなった気がした。
 正に満身創痍だった。一回でも攻撃を食らっていたら、確実にこちらが負けていた。紙一重の勝敗だった、勝利を掴んだのだという実感で、腕が、脚が、がたがたと震えた。

「……ですが」

 アダンの表情が一瞬曇った。何を言いだすのかと、ハルカは彼の目をまっすぐに見つめた。

「最後の一撃……迷いがありましたね」

 何も言えなかった。ハルカはそのまま彼の瞳を見ながら、言葉が続くのを待った。

「それまでのユーの判断は全て適切でした。タイミングも良く、高い瞬発力を持って指示を出していました。ですが、最後のあの攻撃だけ、判断が鈍りましたね」

 アダンは虚空を見つめながら、どこか悲しみの色を帯びた表情で言った。口調が突然真剣になった彼に、ハルカは何も言わぬまま、唇をぐっと噛みしめた。
すると突然。アダンの視線が彼女のそれとぶつかり、彼の目がすっと穏やかなものになった。

「そうは言っても、ユーのバトルはとても素晴らしかったです! 是非また戦いましょう」

 にっこりと笑ったアダンにつられて、ハルカの頬からも自然と笑みが零れた。心の中では、ちっとも笑ってなんかいなかったのに、だ。

 迷い、と言われた。最後のあの攻撃を指示する直前、脳裏に浮かんだのはダイゴのことだった。彼に対しての未練がないかと言われたら、肯定はしきれない。ただ、一体自分は何に迷っているのだろうか。
 その答えが、ルネシティから自宅に戻るまでには出せなかった。家に着いてからも、食事を食べてからも、ベッドに入ってからも。次の日も、またその次の日も、いつまで考えても、自分のことなのに答えが出せなかった。
 答えを求めて、バトルをして、それでも答えが出ない。「迷い」の答えを探し出してから三ヶ月、ハルカの脳はパンクしてしまいそうだった。

* * *

 久々に訪れたサイユウシティには、もうデイゴの花は咲いていなかった。ホウエン地方の中では涼しい地域だが、やはり晩秋は肌寒い。
 突破口を探すため、ブレイクスルーへの手がかりをつかむため。半年の期間を経て、ハルカはポケモンリーグへと戻ってきた。
 この半年間、がむしゃらにただバトルを繰り返してきたおかげで、ハルカには絶対的な自信がついていた。手持ちのポケモン達のレベルも上がった。もう誰にも負けないと、胸を張って言えるようになっていた。しかし、それでもなお、「迷い」の意味は掴めないままだった、

「ミクリさん」

 チャンピオンとのバトルを終えてから、ハルカは彼の名前をそっと呼んだ。

「何だい」

 ミクリは彼女の方へそっと振り返ると、目線を合わせるようにして腰を下げた。
 見上げていた目線が同じになる。心のどこかにあった躊躇が、さっと溶けたように感じられた。

「私、アダンさんに会いました」
「ああ、話は師匠から伺ったよ。素晴らしいバトルだったってね」
「ありがとうございます。その、バトルについてなんですけれど」

 満足げに笑っていたミクリだったが、ハルカの声のトーンが下がったのを聞くと、眉尻を少し下げて首を傾けた。

「迷いがあるって、言われたんです」

 思えば、この三か月間、親にも友人にも伝えて来なかったことを、どうしてこのチャンピオンだけには言う気になったのだろう。それすらも分からなかった。迷ってばかりだ。

「何に、迷っているんだい」
「それが分からないんです」
「なるほど」
「どうしたらいいのかも、分からないんです」

 優しい口調、優しい目で問いかけていたミクリが、急に後ろを向いた。ハルカはその目の先を追いかけてみたが、彼の眺めている先には特に目新しいものはなかった。ただ、殿堂入りの部屋の入り口があるだけだった。

「時間だよ」

 背を向けたままで、ミクリがそれだけ言った。

「時間が解決してくれる。焦る必要はない。そのうち、分かる」
「そのうち、ですか」
「ああ、そのうち、絶対に」

 もう三ヶ月も待ったんですよ、なんてことは、言うに言えなかった。

 結局、何も掴めるものがなかった。ミシロタウンに至るまでの道のりで、何度溜息を漏らしたかなんて数えられなかった。時間が解決してくれるなど言われても、解決するまでの間、どうやって過ごせばいいのかも分からぬままだった。

 だからこそ、ユウキに旅に誘われたときには、二つ返事でついて行ったのだろう。
 研究者の息子である彼は、全国図鑑を貰ったあの日から、図鑑の完成を夢見ていた。ホウエン地方に現れるすべてのポケモンを図鑑に登録し終えたというので、他の地方に旅をすると言って家を訪ねてきた彼に頼み込んで、他の地方へ旅立ったのだ。

 本当に楽しい旅だった。何ヶ月も続いた、ポケモンを追い続ける日々。時には街行くトレーナーとバトルをし、初めて見る建造物に心を動かされ、様々な人と出会い――。
 図鑑を埋め終えて、またミシロタウンに戻ってきた頃。ホウエンは、暖かな春になっていた。

 あの時と同じ風がハルカの頬を撫でた。長旅の疲れを癒しもせず、まるでその風に吹き飛ばされるように、ハルカはトクサネシティに向かっていた。
 明確な理由などなかった。何故か足が向いた。モンスターボールを取り出すと、オオスバメに指示を出して、親に顔を合わせることもなく飛び立った。焦燥に駆られたわけではなかった。ただ、なんとなく。そこに純粋な目的は存在しなかった。

* * *

 埃まみれの家の中をそっと進み、机の近くまでやってきた。シンプルな彼の家には、華美な家具はもちろん、必要最低限の家具もない。ハルカは部屋の中をぐるりと見回すと、最後に目の前の机を見た。
手元に置かれた、一枚の手紙。持ち上げもせず、机の上に置いたままで、ハルカはそれに目を通した。
 何度も何度も読み返した。声に出さずに、何度も文字を追った。最初から、最後まで。丁寧に一文字ずつ、意味を辿りながら。

「ダイゴさん」

 小さな口から、湧き出るように言葉が出た。
 それと当時に、くすんだ紙の上にぽたりと一滴、涙が落ちた。
 分かったのだ。全てが、その瞬間に。今まで自分が悩んでいたこと、悲しかったこと、疑問に思っていたことが、両端を引っ張ったら解けていく糸のように、分かったのだ。「時間が解決してくれる」とは、こういう意味だったのか、と。胸の奥からすうっと、清々しい風が吹き抜けていくようだった。

 モンスターボールを手にして、ボタンを押した。中から出てきたダンバルは、一年も外の世界から隔離されていたにも関わらず、相変わらず大きな瞳のようなレンズをきらきらと輝かせている。
 ふよふよと飛びながら、ダンバルがハルカの元に近寄る。恐る恐る手を伸ばすと、鋼の体は二月の池に張った氷のように冷たかった。それでも、触れた部分から熱がじわりと伝わっていって、段々と温かくなっていくのが分かった。両手で引き寄せると、ハルカはダンバルを優しく抱いた。それでなくても冷たい体が、涙の通った筋だけ、更に冷たくなった。

「ダイゴさん、私、分かりました」

 腕の中のダンバルに語りかけるように、そっと呟いた。

「私、好きでした。ダイゴさんのことが」

 この結論に辿り着くまでに、いったいどれだけの回り道をしてきただろうか。どれだけの時間を浪費してきたのだろうか。
 それでも、遠回りをしてもがいたこと、ダイゴがいなくなってしまったこと、彼がいなくなってからこの気持ちに気付いたこと、そして何より、彼に思いを寄せていたこと。どれもこれも、ハルカにとって後悔の材料ではなかった。

「ダイゴさんは、確かに、私の初恋だったんです」

 頬を伝った涙も乾かぬ間に、ハルカの頬からは笑みが零れた。
 一年前の今頃、確かに彼に抱いていた気持ち。何ヶ月もかけて、やっと気付けた、その感情の名前は。

(9080文字)