●意味の羅列
この世界は意味たちが追い付けないくらいに広すぎて、その淵にあるものの名前を僕は知らない。
今はまだ。
◇
「君の研究に価値などない」
面接官はそう言った。これですべてが終わったのだと思った。
ここが最後のチャンスだった。ここで研究助成金がもらえなければ、僕はこの世界で研究を続けることができない。だから必死で頼み込んだ。必死でプレゼンをした。必死で論文を書いた。
すべて、無駄だった。
「君の主張する理論に関しては皆目意味が分からん。要するにアンノーンに関する研究をやりたいんだね。努力値がもらえること以外何の役にも立たない意味不明なシンボルポケモンの研究をしたいと。で、そいつが春夏秋冬を感じているのかという無駄な調査を続けるために国民の血税200万を必要としていると、そう言いたいんだね、君は」
椅子が二つと机が一つ。味気ないリノリウムの床を蛍光灯が照らす殺風景な面接室。窓の外ではナナカマドの葉が真っ赤に染まっているけれど、ガラスに映った僕の顔色は突き抜ける空よりも青い。いや、青白い。
二重あごの太った面接官が腕を組みながら続けた。
「覚えておきなさい。良い研究というものは厳密に決まっているのだよ。良い研究とはお金になるものであって、ポケモンの多様性を守るものであって、あるいはポケモンを強くすることにつながる、ようするに、価値のある研究のことだ。そして、悪い研究とは、巷にあふれかえっている、それ以外の雑多な研究のことだよ。すなわち、役に立たない研究、弱いポケモンの研究、そして、理論が破綻している研究だ。君の研究は、そういった雑多な研究とどこが違うのかね」
とっとと金を持ってこい、という見えない圧力が20キロ離れた研究室から送られてきたような気がして、僕は必至で言葉を探す。見えない言葉の線を探して僕の目は右へ左へ動くけれど、やっぱり見えないものは見えなくて、何とか捕まえたその言葉は自己嫌悪という四文字だけだった。
「クソッ」
そういって面接会場を後にする。
クソッという怒りの声が誰にも聞こえないくらい小さいのが悲しいところだ。とりあえず、これで来年、僕はこの世界に残れないことが確定した。
「あぁ、研究室に戻りたくないな……」
このボヤキのほうが、ちょっと大きな声だった。
◇
「あぁ、おじさん。おはようございます」
「また練習だね。いつもご苦労さん」
遺跡内部から出てきたばかりの少年が僕に声をかける。
何十回か繰り返したやりとり。
秋型になったシキジカが僕らをぼんやりと見つめ、高く上った日の光が遺跡全体を分厚く覆う。空そのものが僕を押しつぶしそうになるほどの晴天だった。僕は何も見なくて済むように俯いてみる。
最近、あり得ないスピードでジムリーダーを倒している少年がいるらしいという話は聞いていた。そいつが四天王も旧チャンピオンも軽々倒して新しいチャンピオンになったことも知っていた。そいつがたったの10歳だという話はニュースにもなっていた。
でも、そいつがゲーム感覚でポケモンを倒していることは知らなかったし、彼がアンノーンを何百匹も倒し続けていたこともここに来るまで知らなかった。
アンノーンはこの遺跡から無尽蔵に発生する。いくら倒しても倒しきることなんてできやしない。だから練習に、努力値稼ぎにちょうど良いのだろう。
本当はこの子に会いたくなかった。
彼は僕の劣等感を助長してくれるから。
でも僕が行けるところなんて、一つしかない。
この、アルフの遺跡しか。
◇
いつ、誰が、何の目的で作り上げたかもよくわかっていない。周囲にはアンノーンをかたどったレリーフが施され、その壁には血が点々とついている。アンノーン狩りには所長の認可が下りているので法的に問題はないとはいえ、気分が良い物ではない。
僕は石版のパズルの前に立ち、チャンピオンでさえ立ち入り禁止の区画に入るための儀式を始めた。研究のためと称して、一切人の手が加えられることのない区域を確保したのだ。そもそも、僕が開ける前は誰も入れなかった部屋だ。文句を言われる筋合いはない。
パズルが完成する。縦に細長い楕円にインクが零れ落ちたような不思議な模様だ。Gというマークに見えないこともない。
扉が開く。石と石がすれる低い音が響く。
一面の黒。世界ができる前、光が現れる前から存在しているかのような黒。小さなランタンの電源を入れると、その黒が単なる闇ではなく、意思を持って蠢く命だということがわかる。
初めて見たとき、僕はこれを虫だと思った。目の周りにだけある白は、何となく彼らの翅に見える。闇を蠢く無数の虫たちだ。
黒の群れはブンブンと音を立て、球形、円形に形を変えたと思ったら、一つの生物かのように身をくねらせて僕の前からいなくなる。
その後には、ぼんやりとその黒たちを眺める間抜けな僕と、すぐ消えそうなかすかな明かりだけが残った。
◇
名前がアンノーン――意味不明――であるとはいえ、ある程度のことはわかってきている。
たとえばこいつらは飯を食わない。それもそのはず、奴らには口がない。遺跡からエネルギーをもらって生きているらしい。だから一部の遺跡以外には生息しない。
閉ざされた遺跡にしか生息しない美食家だが、なぜか季節に敏感だといわれている。これは11年前に出た論文に書かれていて、曰く、季節によって現れる場所が決まっているのだという。その原因も推察されている。アンノーンが餌としている遺跡からのエネルギー放出場所に関連しているのだ。季節に合わせて餌の場所が変わるのだから、季節に合わせて行動したほうが合理的。
でも、この学説は誤りだということがわかっている。それを明らかにしたのは僕だ。この論文の著者はかなり短い時季だけで即断してしまったようで、何年も遺跡にこもっている僕にとってはありえない話だった。
とはいえ、季節的な変動をしているようにも見えてしまうくらい怪しげな動きをするのは確かだ。さらに、彼らは季節の成分をその身で感じ取ることができることもわかっている。これについては追加の研究が必要だと思う。
で、この研究のために200万円頂戴といって断られたのが今日の朝。これで研究者としての道は閉ざされた。あぁやだやだ、忘れよう。僕にはまだ、幸か不幸か、別の世界が待っているのだから。
そうそう、アンノーン一番の懸案事項であるそのシンボルの意味だが、これは文字通り意味不明であることが明確にわかっている。先人も論文にそう書いていたし、実際に僕も確かめた。間違いない。
アルファベットに良く似ているって? だからこの記号には意味があるんだって? そんなのは大ウソだ。なぜならば、“人間のほうが”アンノーンを真似してアルファベットを作ったんだから。そう、アンノーンが先にいて、それを便利な記号だと思った昔の人がアルファベットを作って、文字を作り上げた。だからアンノーンはアルファベットに似ているし、何やら意味深な動きをしているように見える。でも、その実、意味はない。文字通りの、意味不明。
それが事実だ。
でも僕は、その意味不明さが好きだ。
好きで、好きで、たまらない。
今の研究室に移ってくる前の僕の専門は情報理論だった。
情報理論では、文字通り情報を計算する。そう、情報の量は数値で表すことができるし、だからこそ0と1の螺鈿から意味を見出すことができるのだ。
情報理論は1948年にC.E.シャノンが発表した論文がきっかけで、全世界に広まることになった。
僕が情報理論を好きになった理由は、彼が情報というものの持つ真の意味を気づかせてくれたからだ。
シャノンが提案して、今日まで生きている情報の定義。
情報は、意味不明さの度合いと全く等しいということである。
◇
簡単な例を挙げよう。たとえばすべての目が1であるサイコロがあったとする。そのサイコロを投げて「いくつの目が出たか」という情報を教えてもらって、君は嬉しいと思うかい? 思わないだろう。なぜならば、サイコロの目がどうなるかということは最初から分かっているから。絶対に1だ。これしかありえない。不確実性が存在せず、意味不明さが全くないサイコロを投げたって、得られる情報は皆無だ。
1と2の目が半分ずつあるサイコロを投げた場合はどうだろう。これは、1か2か、どちらかわからないという意味不明さが残っている。だから、サイコロが投げられた結果を聞くと、情報が得られたと感じる。
そして、1から6の目がひとつずつあるサイコロを投げたときの意味不明さは、正6面体において文句なしのMAXだ。だからこそ、その結果が持つ情報量は大きい。
シャノンは、意味不明さ、転じてそれの持つ情報量のことを、情報エントロピーと名付けた。
単純な話だ。意味不明なことがわかるからこその情報であって、意味不明さが存在しないところに情報は存在しない。
意味不明さが大きければ大きいほど、そこに潜む情報量は莫大なものとなる。
僕はそこに憧れる。その絶大な情報量をいつも夢に見る。混沌の淵にある世界に関する一塊の情報を、僕はこの手でつかみたい。
だから僕は、彼らの存在を、愛している。
でも残念ながら、彼らのほうは僕のことを愛してくれはしないようだ。
そして僕は、多分来年、ここにはいない。
ここには。
◇
「あぁ、おじさん。おはようございます」
「また練習だね。いつもご苦労さん」
遺跡内部から出てきたばかりの少年が僕に声をかける。
何十回か繰り返したやりとり。
何十回も出会った少年。
でも、彼に、まだ言えていないことがある。
この日も僕は、喉の奥に言葉たちを仕舞い込む。
――君は、いったい、どこから来たの?
◇
カントーでロケット団のボス、サカキが破れた。僕はそのニュースを今でも克明に覚えている。そして、わずか10歳の少年は、四天王やオーキド博士の孫も一瞬で蹴散らし、ポケモンリーグの頂点に立った。その11年と1か月あと、ここジョウトでも10歳の少年が世界を変えた。
彼らは、文字通りの英雄だった。
彼らは種族値という概念を提唱し、強いポケモン、弱いポケモンを明確に区別した。
彼らは努力値という理論を提唱し、倒すべきポケモン、瀕死にすべきポケモンを明瞭に差別化した。
彼らは常に、時代の先を行っていた。
今のポケモン生態学会は、少年らの理論に追いつくだけで精いっぱいだ。未だ追いついていない部分も数多い。
しかし、彼らに質問することは不可能だ。
圧倒的な威圧感をして、僕らは会話を制限される。
思うことが口に出せない。考えていることをしゃべれない。だから、毎回毎回、同じやりとり。
――あぁ、おじさん。おはようございます
――また練習だね。いつもご苦労さん
これは恐らくみんな一緒なんだろう。
ほかの研究員も、オーキド博士も、そしてサカキも。
だってこの子は特別だから。
この子が来てから、ここの季節はぶれ始めたんだから。
◇
今までの研究者はみんな、アンノーンの持つ行動の秩序に着目してきた。
ABCの並び順、一つの群れの個体数、はぐれ個体に多い記号。その特徴を抽出していたのだ。
でも僕は違った。僕の興味の対象は、あくまで彼らの無秩序性だ。
彼らの無秩序性の起源が知りたかった。
それで僕は、一本の論文を書いた。
ことごとく有名な雑誌からリジェクトされ、すべての学会から掲載を拒否された一本の論文。
それが、アンノーンの季節的行動特性に関する研究だった。
◇
この論文を書いた時点で、僕の未来は決まっていたのかもしれない。今となってはそう思う。
アンノーンたちは無意味に無秩序であるわけでは決してない。理由がなければ、みんな何らかの規則性を持って動く羽目になるからだ。
おいしい商品を安く買いたい? それなら買うべき商品はこの弁当セットになりますね。
鳥ポケモンから逃れたい? ならキャタピー君は草原ではなく森に住むしかないね。
寒いのは苦手? それなら渡りをして冬には南に行きましょう。みんな揃って。
重要事項がある。そして、何らかの制約がある。その制約を鑑みつつ最善のパフォーマンスをしようと思ったならば、多かれ少なかれ似たような行動をとることは間違いない。
では、なぜ彼らは意味不明でいられるのか?
無秩序である理由は二つ考えられた。
一つは分散ポートフォリオ理論に基づく見解だ。一つの株式に持ち金を全部投資していると、その会社が倒産したら、投資していた当人も破産する。一方、ランダムに、たくさんの会社の株を購入していたならば、一つの会社が壊れても痛くない。要するに、全体が一つに偏ることなく多くのバリエーションを残していた時のほうが、安定性は高まるということだ。
しかし、これはアンノーンには当てはまらない。同じ行動をしていたらみんな食われてしまうというような事態には万が一にもなりえないし、そもそも遺跡内部という安定した空間において保険をはる必要性はほとんどないだろう。
逆に言うと、行動を少し変えた程度でチャンピオンから逃げ延びることはできない。リスク分散という意味合いはあったとしても非常に薄いだろう。
では、なぜ彼らは意味不明でいられるのか?
彼らは季節成分を感じることができる。ちょうどシキジカのように。
季節研究所との共同研究で確かめたから、間違いない。彼らは遺跡内部という閉ざされた空間にいるのにかかわらず、季節成分を明瞭に感じ取ることができる。
だから彼らはある程度、僕らの季節に合わせた行動をとる。
それが彼らにとって、合理的なはずだから。
では、なぜ彼らは意味不明でいられるのか?
なぜ、季節を無視して行動するものが存在するのか?
なぜ彼らは無能を装う?
僕がたどりついた結論は一つ。
この現象を理解するための最も単純な方法は、季節が二つあるということだ。
◇
行動の乱雑さの度合いは、シャノンが提案した情報エントロピーで数値化できる。
だから、アンノーンたちが、いつ今の季節に従って、いつ今の季節に従いにくいかがわかる。
僕はひたすら、彼らの行動の意味不明さの度合いを測り続けた。その結果、次のことがわかった。
2季節連続情報エントロピーが減った後で、4季節連続増える。そのあとあまた2季節連続で減る。延々とこの繰り返し。
これで、僕の理論は完成した。
僕らの季節は当然1か月に1回変化する。だから1年は4か月だ。
けれども、3か月に1回季節が変化して、1年が12か月もあるような、もう一つの場所を仮定すれば、この現象を説明できる。
二つの季節が一致するときには、アンノーンの行動は統制がとれて意味不明さが減少する。一方、二つの季節が異なる期間には、アンノーンの行動は乱れ、行動パターンの意味不明さが増加する。
これが、アンノーンの季節的行動特性の原因だ。
二つ目の季節が存在する壁を特定し、その壁を一部削った。するとその奥に部屋があった。真っ黒の部屋。いや、部屋というには大きすぎる。その黒が白すぎて、そもそも大きさがあるのかもわからない。
黒の奥には白い文字があった。空間を覆い尽くす、一面の白い文字。アンノーンと同じアルファベットたちが、カッコやスラッシュに挟まれてちかちかと点滅している。
ここはきっと、世界を記述している部屋だと、僕はそう思った。
この空間にドガースや電磁浮遊をさせたコイルを連れていくと、さっきまで元気に宙を飛んでいた2匹は突然地面に落っこちた。
また、念力やサイコキネシスの効力は、もはやそこでは通じなかった。
すなわち、僕らの考えている、エスパーとか浮遊とか言った原理が通用しないうえ、1年が12か月もある未知の世界が、この遺跡の奥に、存在する。
これが僕の結論だ。
◇
世界中のすべての人に否定されてもあきらめない。
僕はこの理論を信じる。
それで僕は、一本の論文を書いた。
あまりにも荒唐無稽な僕の発見は、ことごとく有名な雑誌からリジェクトされ、ありとあらゆる学会から掲載を拒否された。僕の上司を含む世界中の研究者は、この部屋をエスパーの見せた幻覚だと切り捨てて、僕の理論をひたすらに無視した。
ただ一人の男を除いて。
◇
シキジカがピンク色になっていた。気温も上がり、葉っぱの落ち切ったナナカマドも新しい芽を出し始めた。
季節は移っても相変わらず空は高くて、けれども彼が僕を押しつぶすことはもはやないだろう。
そう思う。
「準備はいいか」
カントーから来た男は、それだけ言った。
真っ白なシャツに真っ黒のジャケット。がちがちに固めた髪の毛。刺すような目。
後ろには筋骨隆々のニドキング、ニドクインが控えている。僕みたいな素人でも鍛えられていることがよくわかった。
かつて、最強のジムリーダーと呼ばれた男だ。
半年前、彼から一通のメールをもらった。
差出人の名前を見て、最初僕は躊躇した。でも、もはや今の僕に選択肢は存在しない。
彼に頼る以外の選択肢は。
メールの署名欄にはこう書かれていた。
株式会社シルフカンパニー 最高経営責任者 サカキ
◇
彼は、母から受け継いだ最愛の組織をわずか10歳の少年に叩き潰された。最強を誇っていた彼のジムも、その少年にバッジを奪われた。
そしてその少年は、四天王を破りチャンピオンとなった。
そしてその少年は、ゲーム感覚でポケモンを倒した。
何千匹も、何万匹も、瀕死状態にさせ続けた。
なぜサカキが復活できたのか、なぜ表舞台に立つことが許されるのか、シルフカンパニーという会社の存在は何なのか、そして僕の研究成果を何に利用するつもりなのか、僕は知らない。
ただ知っているのは、彼がお金を持っていて、僕のために必要な機材を購入してくれるということだけだ。
今の僕には、それで十分だった。
心の準備は、できている。
◇
「あぁ、お兄さん。おはようございます」
「また練習だね。いつもご苦労さん」
遺跡内部から出てきたばかりの少年が僕に声をかける。
百回以上繰り返したやりとり。
百回以上も出会った少年。
でも、彼に、まだ言えていないことがある。
僕は今日、一人で遺跡のさらに奥に行く。シルフカンパニーからの増員はすべて断った。たった一人の旅立ち。今日がこの世界の見納めだ。
もはや言葉を仕舞い込む必要はないだろう。
僕の横を通り過ぎるその子に向かって、僕は自分の言葉を出してみる。
「僕はいつか、君を見つけてみせるから」
この世界は意味たちが追い付けないくらいに広すぎて、その淵にあるものの名前を僕は知らない。
今はまだ。
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