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初版公開:2012年12月4日


●岩の恩人

 親愛なるまともな我が孫 ヒロシへ

 我が親族達には甚だ呆れる者ばかりで、その中でも特別お前は正常であり、常識を持った親族だった。亡くなった我が妻を含め、我が親戚は赤の他人になりたい程異常な者ばかりだがお前だけは違った。表面上、我が資産を露骨に欲しがろうともせず、寝たきりだった私の世話をしたのもお前だけだった。他の者からの介護も受けたことがあるが、笑顔の裏にある『将来配分されるだろう報酬』の期待を隠せない奴らばかりで、私は心底残念でならなかった。仕舞いには、土地はどうするのか、私が亡くなった後のこと等、具体的な話を持ち出した者までいた。別に欲を出すのを悪いとは言わない。貰えるものは欲しいに決まっている。しかし、せめて気持ちだけでも私を一番に考えて欲しかった。
 唯一の例外がヒロシ、お前だった。一族が皆当たり前のように持っている意地汚さ、傲慢さ、その他の汚点を、お前は殆ど心に秘めていなかった。独りで歩けなくなった私を車椅子で外に連れ出してくれた時は、思わず涙が出そうになったことを今でも覚えている。あの後、他の親戚に「もしおじいさんが怪我をしたら責任を取れるのか」と理不尽に怒られたようだが、何も気にすることはない。寧ろ、喜んでいた私を非難するようなものなのだから、叱った側が叱責されるべきだったのだ。
 お前にも、つらつらと書いてきた下心はあっただろう。何も努力をしなくとも懐に入る筈の将来の金を期待しただろう。しかし、ヒロシになら全てを譲っても良いと思う。生前の間、お前に関して不快に思った出来事など殆どない。せいぜい、幼い頃の物欲やしつけ不足による失礼な態度くらいだろう。そんなものは、最初は誰でもすることだ。
 要するに、お前は上手くやった。私を満足させたのだ。
 周りの血が繋がった親族全てを敵に回すかもしれない。しかし、お前は胸を張って良いのだ。欲望を隠しきれなかった間抜けな連中は、手の平で必死に吼えている小型の臆病犬と思え。

 それと、お願いがある。
 代々私の一族が管理している山をお前も知っているだろう。あそこは自然が豊かなのはもちろんのこと、ふもとには古い神社がある。毎年一緒に初詣に行っていた場所だ。あそこの運営とは全く無縁なのだが、土地の権利はこちら側が所有しているという、少々ややこしいことになっている。さっさと私が山を明け渡せば良かったのだが、そうした場合、多額の税金が神主にのしかかってくる。向こうにはそれを払う余裕がなかったので、賃借料を貰わずに土地を貸していたのだ。
 どうか、神社が建つ土地の周辺だけはそのままにしておいて欲しい。固定資産税やその他の費用は、遺産から支払えるだろう。家や他の土地は売っても良いが、あそこだけは管理を受け継いでくれ。
 後一つ、その神社はガントルを土地神としてまつっているのは、お前も知っているだろう。実は建物の奥には、本物の生きたガントルがいる。名はタロウと名づけた。あいつは、私が山で大怪我をした時、神社まで送り届けてくれた命の恩人だ。以来、神社の方で手厚く保護して貰っている。足を悪くしてからは随分と会っていないが、あのガントルがいなければ私は早めに死んでいただろう。つまり、お前も産まれなかったのだ。今後も彼の面倒は見てやるように。
 タロウには、私の死をきちんと伝えて欲しい。何十年の仲なのだから、隠していてもいずれ知られてしまうだろう。
 私的な発言は以上。

―――――――
遺言状

遺言者タツヤは次の通り遺言する。

一、遺言者は左記の不動産を孫ヒロシに相続させる

土地 所在 ○○市×区二丁目 三十九番地
地目 宅地  地積  五〇〇〇平方メートル

(その他の土地、山等数多くの土地が明記されている。他にも建物についても全て書かれていた)

二、現金預金の全てを孫のヒロシに相続させる。これは今まで面倒を見てくれたことに対する感謝と共に、今後とも孫ヒロシには不自由ない生活を送って欲しいという気持ちの顕れである。

三、有価証券の全てを孫ヒロシに相続させる。

四、この遺言の執行人として以下のものを指定する。

○○市△区一丁目三十五―三  行政書士  □□□□

平成二十二年八月三十一日

○○市×区二丁目 三十九番地
松井マサル 卯

――――――

 このようにして、大学二年生のヒロシは、一夜にして大金持ちになった。
 彼は昔から、亡くなった祖父ばかりと遊んでいた。共働きの両親には殆ど相手にされず友達の少なかった彼は、寂しくなると自宅近くにある祖父の豪邸に行くのが日課だった。祖父は厳しかったが悪いことをしなければ怒ることはなかったし、数え切れない様々な知識を教わった。ポケモンバトルをヒロシに教えたもの彼だし、今も心に残る思い出をヒロシに残したものは、実の両親ではなくて祖父だった。
 だからこそ、祖父が倒れたと父から聞いた時には、大学の授業なんかすっぽかして地元へと戻ってきた。病院で痩せた祖父を見た瞬間、ほんの少しだけ泣いてしまったのをヒロシは今でも思いだせる。
 自分にとって、本当の両親は祖父のようなものだった。大学の授業料を出してくれたのも両親ではなく祖父だった。父からは「これ以上学費を出せない」と念を押されてしまったので奨学金でも借りようとしたところ、祖父が助け舟を出してくれたのだ。
 ヒロシが祖父の面倒を見るのは当然だった。精一杯の家族愛で支えるのは自然なことだった。
 莫大な遺産が自分の手元に転がってきた時は大惨事だった。皺だらけの親戚からは「まだ学生なのにこんな大金を渡したら人生を狂わす」と鬼のようにヒロシを攻めた。仮に世の中で殺人が認められていたとしたら、間違いなく彼は刺されていただろう。しかし、きちんとした遺言状があると、祖父が依頼してあった行政書士はヒロシを守り抜いた(その行政書士はもちろん、莫大な依頼料を払われている)。
 実の両親でさえも、人が変わったように自分の息子を軽蔑し、最低な言葉で罵声を浴びせた。共働きしないと生活ができない毎日を過ごしているというのに、自分達には遺産が入らず、全て息子が持って行ってしまったからだ。
金を返せ、お前を産んでいなければもっと楽な暮らしができた。
両親は、親として言ってはならない言葉をヒロシにぶつけた。
ヒロシはそんな親と絶縁状態になった。だが、あまり両親との思い出が残っていないのでそれ程悲しいとも思わなかった。実家を出て行く時、今まで育ててくれたことを感謝し頭を下げたが、バケツに入った水を思い切りかけられたことで、改めて両親を捨てることを決心した。
自分の遺産処理をきちんとしてくれた行政書士に、両親の戸籍から抜ける方法を尋ね、弁護士を紹介して貰いそれを実行した。万が一彼が亡くなっても、財産が両親にいかないようにもした。
また、歳が近い従姉妹が急に親しく接してくるようにもなった。ここ数年まともに会話もしていないというのに、親友のように関わってくる。仕舞いには、まるで恋人のような態度で振る舞うようになる。これには、彼も苦笑いするしかなかった。そんな浅はかな親戚を一蹴し、改めて金の魔力を実感するのだった。
ヒロシは喜んでいた。幸い好いている相手もいないし、友人も少なからずいる。金持ちになったことを知って態度を変えるような奴はいるだろうが、傲慢になったところで縁を切れば良い。孤独が寂しければ、ポケモンを捕まえて家族を増やせば良い。人間に財産を使うより、よっぽど有意義で無駄がない。
 彼は、祖父以外の失いたいものを失い、手に入れたいものを易々と掴んだのだった。

 後日、ヒロシはあの山を訪れていた。
 わざわざ遺言状を残してまで維持いたかった山と神社。地元の祭りや初詣の際は、参道に沿って出店が並ぶ。こげた焼き鳥、無駄に高いわたあめ、そして祖父の笑顔。思わず涙がこみ上げてきたが、あくびをすることで誤魔化した。泣いて良いのは大切な人が亡くなった時だけ。祖父の受け売りだ。もう思う存分泣いたのだから、我慢しなければいけない。
どちらにしろ、土地の管理人が変わったのだから、きちんと挨拶はしておかなければならない。神主は確か葬式には来ていたし何度も顔を合わせているので、緊張はあまりない。平日のお昼過ぎ、余程の用事がなければ神社には誰かしらいる筈だった。
自分の背丈よりもずっと大きな鳥居をくぐり、枯葉があまり落ちていない参道を歩いていけば、苔が生えた手水舎(ちょうずや)が右側に配置されており、龍の口からは水が吹き出ている。一応手を清めてから進むと、大きな木造の拝殿が見えてくる。更にその奥には小さな本殿があり、隣には神主の家族が住む立派な和風の家がある。
「本当に、土地の税金が払えなかったのかなあ」
 小さな声でヒロシは呟く。祖父は寛大であるので、“当時”は間違いなく切羽詰っていたのだろうけど、こうして時が経った今、真相は分からない。この神社はメディアにも取り上げられるくらいに有名であるし、参拝客も決して少なくはない。鳥居の色も真新しかったし、数年前には、神主の自宅は建て替えられたとも聞いた。不自由ない生活を送っているのだろう。
 だからと言って、土地を売るつもりはヒロシにはなかった。先祖代々受けついできた土地を切り離すと祖父に怒られる気がしたし、散々親戚や両親と遺産争いをしたので、これ以上、金のことで誰かと揉めたくないのが本音だった。
 流石に疲れがたまっていた。
 しかし、そろそろ現実に戻らないといけない。
 大学の授業だって数週間さぼっているので、そろそろノートをかき集めないと単位を落としてしまう。既に出席数が足りなくて手遅れの科目もあるだろうが、最大限の努力をしなければ、天国の祖父に叱られてしまうだろう。留年等するとは、お前をそんなに甘やかして育てた覚えはないぞ、と。
「あの」
 突然話しかけられて、自分でも驚くくらいの大きな悲鳴を上げると、野太い声が静かな神社に響き渡る。
 背中の方から、何かが地面に落ちる音。振り向いてみると、尻餅をついた若い女性がいた。
 見覚えがあった。硬い水色の肌に大きく膨らんでいる白い乳房、背はヒロシよりずっと低いが貫禄があり、何よりも目力が強い。腕も太く、ヒロシと真剣に喧嘩をしたらあっという間に骨まで折られてしまうだろう。
 ニドクインのシズク。神主のところで暮らすポケモン。
 まだ彼女がニドラン♀だった頃からの知り合いであり、彼にとって友人とも呼べる相手だった。大学生として都会へ引っ越してから会う機会は極端に減ったが、時々電話で雑談をしたりもする、心を開ける数少ない知友。
 彼女に会うことも、ここに足を運んだ理由の一つだった。
「久しぶり」
 ヒロシは、未だに土の上に座るシズクに手を差し出す。
「やっぱりヒロシだ。背が伸びたよね? 顔つきも変わったなあ」
「背は伸びたな。まさか大学に入って、五センチも伸びるとは思わなかったよ」
 助けを借りて起き上がったシズクは、土埃で汚れた尻をはらう。
「その身長よこせ」
「嫌だね。悔しかったら追いついてみろ」
「ニドクインの平均身長が130センチだって、知ってる癖に」
 吼える彼女を見て、ヒロシは笑いながらシズクの頭の上に手を置いた。
「神主さんいる?」
「うん。お父さんなら、家の方にいるよ」
 どうやらすれ違いにならなかったようだ。
 二人は、並んで神主が家にいる家へと向かう。

 神主は、正真正銘の、どこにでもいるような禿げた中年の人間だった。彼は迫り来る脱毛の波にはあっさりと白旗を揚げ、常にスキンヘッドで過ごすようになっていた。その姿は、神主というより坊主のようで、以前ジャングルだった神主の頭を知るヒロシはとても驚いた。
 彼は、祖父の葬式に出席してくれたことについて改めてお礼を言い、山の管理は自分が引き継ぐことを伝えた。神主からは、土地を貸してくれて感謝していると改めてお礼が述べられ、ここ数年で漸く生活に余裕が出てきたから、土地の賃借料は払うと申し出た。ヒロシは断ったが、いつまでも甘えてられないと意見を変えてくれなかったので、詳しい金額は後日決めることになった。どうやら、生活が厳しかったのは本当だったらしい。幼い頃は、皺だらけの優しい神主が苦労しているとは知りもしなかった。自分は歳を取っているのだと、改めて実感する。
「それとお願いがあるのですが」
 この神社のどこかにいるであろう、祖父の古い友人に会わせて欲しい。その為にここに来たのだと、ヒロシは伝えた。
「うちの娘に会いに来たのかと思いました」
 もちろん、そちらも目的だとも伝えておいた。シズクが神主に対して少々の文句を言ったが、聞かないフリをしておいた。
 ただひたすら多忙であった両親と関わってきたヒロシにとって、神主みたいな“のんびりと過ごしているように見える父親”を持つシズクを、羨ましがったことを思い出す。身体だけでも成人を迎え大人の事情を知った今、決して楽をして生きている訳ではないのはもちろん理解しているが、表面上だけでも余裕がある素振りをする彼を、ヒロシは素直に尊敬した。
両親は、いつも愚痴を言い、ヒロシに八つ当たりをし、夫婦喧嘩を繰り返していた。自分の親を攻める気はない。だが、幸せより不幸が多かった家庭で歳を取ったヒロシは、この神主が父親にならないかと、何度願ったか分からない。
 神主の後を追って本殿へ向いながら、自分は両親のような心に余裕がない中年にはならないと確信していた。原因は、金がなかったと理解しているからだった。自分には少なくとも、娯楽に浪費できない程酷い生活は送らないからだ。
 蛙の子は蛙だ。だが環境が違う。あちらは沼、こちらは衛生管理されたプールだ。
 真新しい廊下を進んでいくと、途中でいきなり床の色が濃い場所へ出る。一歩足を踏む事に木が悲鳴を上げる、何十年も変わっていないだろう古い廊下。
 ヒロシは本殿に入ったことはない。祖父の友人が奥にいることも、あの手紙で初めて知ったことだし、祖父がここへ向かう姿を一度も見たことがない。シズクと神主の家でかくれんぼをしたことがあったが、その際もここに足を運んだことはなかった。照明が少なくて薄暗く、入ったら二度と出てこられないのではないかという独特な雰囲気が邪魔をして、本殿へ忍び込む勇気なんて湧いてこなかった。この歳でも、独りきりでここへ行けと言われたら、間違いなく躊躇していただろう。
「恐い?」
 後ろから着いてくるシズクの声に驚き、ヒロシは肩を震わせる。
 表情を見られていないのに、心中を簡単に当てられる辺り、彼女はただの友人ではないなと改めて感じる。
 背中を突いてくる。
叶わないものだ。
「恐い」
 どうせ隠してもばれてしまうなら見栄を張らなくて良い。正直に自分の気持ちを答える。
「服の裾、握って良い?」
「良いよ」
 多分、彼女も似たような気持ちなのだろうと思う。
 上着の左側から感じる服を引っ張られる感覚を味わいながら、何もない廊下を歩いていく。神主が立ち止まりこちらを向いた。ぶつからないように止まる。神妙な面持ちだった神主だったが、ヒロシ達の現状に気付くと笑顔に変わる。
「ここが、タロウ様がいる部屋です」
 タロウ様。違和感がまとわりつく。
「基本的に、タロウ様の部屋には私しか入りません。食事、掃除、その他身の回りの世話は全て私が担当してきました」
「祖父が、最後にここへ来たのはいつですか?」
「少なくとも、あなたが産まれる前より以前には、ここを訪れていないと思います」
 最低でも、約二十年。
 祖父は、足を悪くしてから会っていないと言っていたが、もっと前から顔を合わせていない可能性もある。
実の孫である自分を見た時、向こうはなんと言ってくるのだろう。祖父の死を伝えた時、彼はどんなことを思うのだろう。
極度の緊張を拭えないまま、神主は、金に塗られた立派な襖に手を当てる。失礼しますという腹から出た逞しい声と共に、扉は開かれた。
 広さで言えば六畳くらい。ここも照明は少なく、部屋の主の両脇にある電気蝋燭のみ。家具や装飾もない質素な空間。倉庫と言われても疑わないだろう。
 中央より少し後ろに佇む、人間とはかけ離れた生き物。紺色のごつごつとした肌に、畳を踏みしめる四本の大きな足。全身は硬い岩石で、埋め込まれているように並ぶ二つの瞳は、真っ直ぐにこちらに向けられている。
 ギガイアス。ガントルではない。
 彼がタロウ。祖父を山の遭難から救った恩人。そして長年の友人。
 タロウは、ただ一人の人間に視線を向けていた。
 向けられた本人は、その力強い赤い瞳を見つめ返す。
「マサルか。久しぶりだな」
 限りなく低い声。
「……」
 迷う必要がないのに、ヒロシはどう言葉を返すかに迷った。それは、本当に祖父の死を伝えるべきなのかという戸惑いによるものだった。
 やはり、知らせない方がタロウも幸せなのではないか。
 余計な偽善。頭で理解しても、言葉が喉に詰まる。
「今は、秋が終わる頃か。どうだ、もう雪は積もったか?」
「いや、まだ降らないよ」
「お前は寒いのが苦手だったな。前みたいに、雪が降る中無茶して山の中へと入るんじゃないぞ。この辺りの山は、冬になると誰も入れないのだからな」
 ヒロシは、冬の山について祖父から聞いたことがあった。真冬になると身の丈より高く雪が積もるので、とても人が入れるような状況ではなくなるらしい。山登りができるような環境ではなく、プロでも挑戦しようと思わないと、酒を飲みながら重苦しい顔で話していた。
 夏は緑が生い茂り、川で遊んだり釣りをしたりと、レジャーにはもってこいの山。冬だけは、何者も寄せ付けないまま、ひたすら春まで沈黙する。
 そんな山に、どうして祖父は入ったのか。
「そうだ。嫁さんは元気か」
「嫁は、随分前に亡くなったよ」
 ヒロシは、祖父の役を演じ続ける。
「そうか。お前が愛した奥さんを是非見たかったが…子どもは、いや、孫だったか。元気なのか。確か、名前はヒロシと言っていたな」
「元気だよ。大学は浪人せずに入学した。成人を迎えてな、酒が一緒に飲める歳になった」
「それは良かった。これで松井家も安泰だな」
 自分がヒロシではない気がしてくる。目の前のポケモンとは初対面の筈なのに、それらしいことを易々と口にできる。
 部外者である付き添いの二人は、成り行きを黙って見守っている。
「足が悪いと聞いていたが、大丈夫なのか」
「ああ、もうすっかり治ったよ。だからこうして会いに来た」
「嬉しいな。こうして会話をするだけで、今までの数十年分の空白が埋まるようだ」
 反対に、こちらは虚しさが募る。
「今思えば不思議な出会いだ。冬の山の写真をどうしても撮りたいと思ったお前が山に入らなければ、私をお前は出会わなかったのだろう。好奇心が、良い出会いを生んだのだな。こうして専用の部屋を与えてくれたことも感謝しているよ」
「気にすることはない。お前は、私の恩人だからな」
「そうだ。お前があの時、リングマをカメラで追い払ってくれなければ、私もここにいないのだな」
「リングマ?」
つい聞き返してしまう。耳にしたことがない話だった。
「そうだ。冬眠していたリングマが、土砂崩れのせいで目覚めてしまったことがあってな。私はまだガントルで、偶然近くで体を休めていたのだ。半分八つ当たりに近かった。私は懸命に戦った。力の差は歴然だった。でも逃げる訳には行かなかった。私にも、妻と子どもがいたのだからな」
 冬の山。遠吠え。岩が崩れる音。
「結局、私は自分の家族を守りきれなかった。絶望し、戦いを止めた時、お前が駆けつけてくれた。手に所持していたカメラで、リングマの目に光をぶつけた。その拍子に、リングマは谷底へと落ちていった。後に残ったのは、絶望した私と、遭難して死にかけたお前だけだった。私は、お前だけは殺してはいけないと思った。だから、こうして山を降りた」
 静寂。
「独りきりになった私を、マサルはとても可愛がってくれた。だが、体を壊してからは会う機会がすっかり少なくなってしまったよ。お前は、あいつの息子かな? それとも…」
「―――孫の、ヒロシです。先日亡くなった、マサルの孫のヒロシです」
 もう演技は必要ない。
 ヒロシは、堂々と自分の名前を宣言した。
「そうか。お前がヒロシか。マサルは、もういないのか」
「穏やかに、息を引き取りました。僕は、そのことを伝えに来ました」
 涙声になるが、水滴だけは出してはいけない。
「そうか。もう、いないのか」
 言い聞かせるように、じっくりと、タロウは呟いた。
 彼は目を閉じて長い間黙っていた。この場にいる者は誰も動こうともしない。
 おもむろに、ヒロシはタロウへと近寄り目の前に正座する。そして、タロウの右足に触れた。
 予想していたよりも、ずっと冷たい岩の肌。氷のような足に手を当てて言う。
「松井家を代表してお礼を言わせて下さい。祖父を救ってくれてありがとうございます。あなたがいなければ、私は産まれていませんでした」
「こちらこそ、君のようなご子息と会えて良かった」
 自然と手に力が入る。長い年月を過ごしてきた荒々しい肌を撫で続ける。記憶に刻み込むようにいつまでも。
 暫くして離すと、タロウは言う。
「さて、そろそろ独りにして貰えないかな。昼寝をしたいものでね」
「分かりました」
 石のように固まっていた二人も、その一言を合図に部屋から出る。ヒロシは、擦り切れた畳をゆっくりと戻っていく。
「また、来ますね」
 返事は返してくれなかった。長い高いびきが聞こえていた。

 三日後、ヒロシは大学の通学のために借りているアパートで、タロウが死んだことを知らされた。
 これから大学へ向かうところだった。いい加減学生の義務である勉強をしなければと身支度を整えていた時に携帯電話が鳴る。滅多にない神主の家の番号からの電話。非常事態かと思ったら、予想は的中していた。
いつものように神主が水とポケモン用の食事を持って部屋に入ると、体が崩れて粉々になっていたタロウを見つけたらしい。最初は誰かが人為的に殺したのではないかと思われたが、人が忍び込んだ形跡もないし、タロウがかなりの高齢であったことから、寿命と判断されたようだ。
タロウの亡骸は、祖父の墓の隣に、大昔に亡くなったタロウの家族と共に葬られることになった。どうやら、タロウの後ろにずっと亡骸があったらしい。週末、葬式をやるから、来られるなら是非来て欲しいと神主に伝えるように頼まれたとシズクは言った。
「週末は、アルバイトが入っているんだ。多分融通はきくと思うけど」
「そう。無理しないでも良いからね」
 流石に許してくれるとは思うが、ただでさえ祖父の件で休みすぎているのだから、いよいよクビになってしまうかもしれない。ヒロシは不安を覚えたが、そういえば、自分はもうアルバイトをしないでも生活ができるのだ。ならば、明日からもう来るなと言われても問題はない。優先順位は、葬式が一番上になる。
 また新幹線のチケットを取らなければならない。きちんと学割は利用しよう。
「そういえばさ、気になっていたんだけど、これから本殿はどうするの?」
「どうするって?」
「つまりさ、タロウがいなくなった今、あそこにポケモンがいないのは、あまり良くないんじゃないかなって」
 そもそも、ガントルをまつっている神社にギガイアスがいたというのが驚きだが、細かいことは気にしてはいけない。しかし、いるのといないのは違う。寺にだって仏像のような象徴がなければ、あのような商売は成り立たなくなる。表に出ない場所だとしても、まつられる物がないのはまずいだろう。
「そのことだけど、お父さんがお母さんと話していたわ。なるべく早めに、野生のガントルを捕まえる手配をするらしいよ」
「へえ。やっぱり、生き物じゃないと駄目なのか」
「どうなのかな。でも、今度はもう少し立派な部屋を割り当てるって。タロウさんは好んであの場所を動かなかったみたいだけど、本殿も、そろそろ改造しないといけないみたいだから」
 やはり、タロウは好きであの場所にいたのだ。
 少し安心している自分がいる。除け者のように、あの空間に追いやられた訳ではなかったようだ。
「でも不思議だね。世間は、割と有名な神社の本殿にいたガントルが入れ替わったのを知ることはないんだよな」
「伝統なんてそんなものよ」
「そんなもの、か」
 形式さえ守られていれば、それで良いのかもしれない。
 少なくとも俺やシズク、神主はタロウを忘れはしないだろう。
「ねえ、今度、そっちに泊まりに行って良いかな?」
「今度って、いつ?」
「そうね。ヒロシが都合の良い日ならいつでも」
「なら、来週の土日に」
「分かった。泊まりに行く」
 電話を切ると思わず笑みがこぼれる。普段学校が忙しいので、顔馴染みと遊ぶ予定が入るのは嬉しいことだ。
 何十年という月日が経っても、長い間離れていても、ああして互いを想えるのは素晴らしいことだと思う。
 自分にもシズクがいる。祖父が亡くならなければ、タロウに会わなければ、シズクと再会するのはもっと先だったかもしれない。もしかしたら、どちらかい家族ができて、更に疎遠になっていた可能性もある。
 身近な相手を大切にしよう。
 ヒロシは、週末にシズクをどこに連れて行くかを考えながら学校へと向かった。

(10285文字)