●立てこもり
一日限りの非番は、思わぬ形で消滅することとなった。いや、思わぬ形といったものの、非番の日に限って新たな事件のために現場へ駆り出されるという不幸は別段珍しくない。ただ、その不幸が自分の身に降りかかるという覚悟が、ほんの少し足りなかっただけだ。
目の前にそびえる、リモコンを巨大化したようなビルを見上げながら、俺はため息をついた。夜明けが近いのか空は地平線からだんだんと白んでいるものの、あたりはまだ薄暗い。ビルの周囲には、普段なら設置されていないであろうサーチライトで眩しく照らされていた。そしてビルを囲うように建てられた外堀をくぐると、これまた普段は置いていないであろう白い天幕が一、二、三……と結構な数が設置されている。どうやらここに捜査本部を仮設したようで、天幕と天幕の間をスーツたちが早歩きしていた。私服の俺は確実に浮いているな、これは。
「刑事! こちらです!」
と、天幕の一つから後輩刑事がひょっこり顔を出して俺を手招きした。彼は中学生にスーツを着せたような童顔なのであだ名もそのまま童顔になっていて、本名は正直忘れそうだ。俺はそんな童顔刑事の招きを受けて、捜査本部へと足を踏み入れた。
俺の非番を奪った騒動。その拠点となるこのビルは、とある大手製薬会社であるK社が所有するビルであった。警察内ではK社の名を知らない奴はいない。理由は単純、あそこは黒い噂が絶えないからだ。やれ試験薬品の投与に法外の実験を行うだの、薬を作る代わりに実は武器を作っているだの、まぁどこでも聞くようなありきたりな噂だ。近々ここに捜査礼状が降りる予定だったが、その前にあちらから騒ぎ立ててくれたらしい。
「で、状況はどうなんだ」
童顔刑事に連れられて即席捜査本部の机の前に立ったはいいが、なにも聞かされずに来たものだから状況が全くわからない。
「はい、報告します。事件があったのは今日の午前三時頃。K社回線の固定電話から警察に連絡が届きました。『K社をのっとらせてもらった』と」
「人質は?」
「K社で夜勤をしていた社員と研究者、約三百名です」
「人質を取った立てこもりか」
「はい」
童顔が頷いた。と、机の周りにはいつの間にか彼以外の刑事も集まってきていた。ははぁ、どうやらこの件に相当苦戦しているというわけか。立てこもり犯はなかなか頭のキレる奴らしいな。
「はぁ、俺を呼んだのは知恵を貸してほしいからってか? 全く非番だってのに……。それで、犯人から電話がとやらがあったんだから、声紋から身元は割れているんだろうな」
「いえ、それが……」
童顔はいきなり言葉の歯切れが悪くなった。俺はそんな彼に若干血管を浮き上がらせて「なんだ」と早口に言ってやった。どんな言い方でも状況は変わらないんだから、さっさとはっきり言いやがれ。
「はい、犯人は電話をする際、人質の一人に電話をかけさせたみたいなんです」
「ほう」
不謹慎かもしれないが、俺は犯人のそのやり方に感心した。なるほど、敵さんはすでに声紋照合の存在を懸念していて、人質にしゃべらせたのか。
「それで、人質づたいの犯人の要求は?」
「『話がわかる者を出せ。その者に要求を言う』だ、そうです」
「話がわかる者、だと?」
注文の多い奴だ、やっかいなことを言いやがって。
「それで、有志の警官一人に通信機を持たせてエントランスホールへ乗り込ませたのですが……」
「撃たれたのか?」
結果はだいたい予想できたので俺が童顔の言葉をつないでやると、童顔が苦々しい表情で頷いた。
「いえ、撃たれたのではなく、吹っ飛ばされたというか……」
「――恐らく、犯人はエスパータイプのポケモンを使ったかと」
おっかなびっくり、といった様子でその場にいたとある刑事が童顔の言葉の間に割って入った。
「なるほど、“サイコキネシス”や“テレキネシス”の類か。それなら説明が付く」
“サイコキネシス”は見えない力で者や人を運動させる強力な技、時にはその見えない力を凝縮させて打ち出すこともできる。……俺たち警察からすれば、やっかいな技以外の何ものでもないがな。
「犯人は少なくとも一匹以上の、しかもエスパータイプのポケモンを従えているというわけですね」
「よし! K社の中でエスパータイプのポケモンを持っている社員を洗い出せ!」
童顔刑事は、どうやらここでは捜査主任らしい。彼が指示を飛ばすと、イトマルの子を散らしたように刑事たちが活動を始めた。
K社の社員の中から該当者をふるいにかけるのはさほど難しい作業ではなかった。今日夜勤に出ていて、且つエスパータイプのポケモンを持つ者が意外に限られていたからだ。
「刑事!」と、ガーディがしっぽを振ってくるかのように、童顔刑事が走り寄ってきた。手には数枚の紙がある。恐らくあれが該当者のプロフィールだろう。
「いましたよ、しかも一人だけ! エイジ・モトムラ、三十歳。K社の開発部研究員として入社して五年になります。フーディンを所持しているようです。これで犯人は決まりですね!」
俺はうれしそうにしながら本物のガーディのように喚く。
エイジ・モトムラ、か。どうも腑に落ちないな。こんなに早く素性がばれるのなら、わざわざ正体を隠す必要など無かったはずだ。いやむしろ、フーディンを使ってまであんな回りくどいことをしなければならなかったのだろうか。現に、そうすることで素性がばれてしまったではないか。
「――犯人が接触してきましたッ!」
と、俺たちから少し離れた机でヘッドホンをつけていた刑事が、緊張で裏返った声で俺たちに注意を喚起した。机の上のプッシュホンがやかましく鳴り響いている。彼らは各々が自身のイヤホンを耳に差し込む、そして全員の装着を確認した童顔刑事が、自信に満ちた振る舞いで電話の受話器を上げた。
「……もしもし」
『あ、あのまた私なんですけど……』
俺の予想に反して、受話器の耳当てから聞こえたのはか細い女性の声であった。そうか、犯人は電話をするときに人質にしゃべらせるんだったな。
「犯人のメッセンジャーですね、すぐに助け出します。もう少しの辛抱です。それで、犯人はなんと?」
『はい、「話がわかる者は連れてきたのか?」と……』
そこまで女性が言うと、童顔は俺に視線を移してきた。なんだ、どうして俺に視線を向けるんだ……? ああそうか、俺が『話がわかる者』になれってか。まったく部下のくせに人使いが荒いったらないな。
まぁ仕方がない。俺の人望もまだ捨てたものではないということにしておこう。ここは一つ、事件の早期解決のために一肌脱ぐか。……というか、そこまでしなくてはわざわざここまで来た意味がない。
俺が童顔刑事に目で了承の意を伝えると、彼はゆっくりと頷いてから受話器に息を吹き込んだ。
「もしもし? 今からひとりそちらに向かわせると犯人に伝えてくれませんか」
『……わかりました』
女性は震える声でそう答えた。その後しばらくは、耳当てから小さな雑音と女性のかすかな話し声が聞こえるのみであった。が、しばらくすると『「こちらに向かえ」とのことです』と言った後、通話が切断された。言いたいことだけ言っておさらばしちまいやがった。
「今の録音に、犯人の声は入っていたか!?」
童顔は受話器を乱暴に置いて、パソコンのキーボードを高速で打っている科捜研だか鑑識だがわからない集団に向かって大声で叫んだ。しかし、彼らはノーのサインを出す。
収穫はゼロ。まったく、手札が集まらないまま敵の懐に飛び込まなければならないのか、俺は。
俺は部下たちが代わる代わる薦めてきた防弾チョッキも、拳銃も、ポケモンのお供も、すべて断った。そんなことをしては俺が『相手が撃ってくるもしくは技を出してくる』ことを前提にしているようにしか見えない。犯人は恐らく自らのことを無計画で野蛮な立てこもり犯だとは思っていない。むしろ崇高な使命を果たすために動いている使徒のように思っているはずだ。そんな奴にビクビクしながら挑んでも、逆に相手を刺激することにしかならない。
「ほ、本当に丸腰で行くんですか……?」
そんな濡れた瞳でこちらを見るな、童顔。もうここまでくると本当に、ガーディにしか見えない。
「できるだけ穏便に済ませてくる。強行突撃は最後の最後。最終手段はとっておけ」
俺の言葉を受けた刑事たち全員が深く、そして強く頷いた。
さて、一仕事やってやるか。
エントランスホールという空間は入る度に不気味な空間だと俺は思う。俺が普段そんなところに縁が無いせいか否かは知らないが、だだっ広い空間に、靴音だけがやけに目立って聞こえることに毎度のことながら抵抗を感じる。話し声や物音すべてが、エコーがかったように反響するのも気に食わない。どうやら俺は、人間やポケモンの生活のにおいがしない空間というものがどうも苦手らしい。
それに加えて、今回は状況が状況であるから、ホールには今のところ俺以外に誰もいない。こんな天井が高い場所で一人、無音という音を聞く身にもなってほしい。俺は沈黙が嫌いだ。思わず、叫びを上げたい衝動に駆られる。
「……そっちは“話がわかる奴”がお望みらしいな。俺があんたのお目に叶うかどうか、直接確認してみたらどうだ?」
どこかに隠れて俺を見据えているであろう犯人に向かって呼びかけた。やはりこの空間では、さほど大きく声を出していないのに勝手に声が反響してしまう。
「よく聞け。俺はあんたとはできるだけ穏便にことを済ませたい。あんたは何かどうしても伝えたいことがあるんだろう? じゃなきゃ、人質まで取ってこんなことをやる意味がない。目的を達成してそれで満足してくれるのなら、俺はあんたの要求を聞こう。できるなら手助けもしてやりたい」
俺は急いで息継ぎをした。相手に攻撃させる隙を与える気は無い。
「だから俺と話しをしようじゃないか、エイジ・モトムラ――」
姿の見えない犯人は、俺が容疑者候補の名前を出しても撃ってこなかった。それならば。
「――いや、モトムラのフーディン、と言うべきか? ……この計画の首謀者はあんただろ」
俺は内心で、この突拍子もない発言のせいで念力かなにかを食らって吹っ飛ばされるのではないか、という恐怖がないわけでもなかった。だが予想に反して俺の身には何も起きずホールのエレベーターが、ひとりでに『チン』と間の抜けた音をあげて口を開いた。
警戒が解かれたということか? いやそれとも何か別の意図があるのか? 頭の中ではそんな警察官として当たり障りのないことを考えていた。が、俺の理性とは違う部分では、あの銃を操っているフーディンが俺を誘っているのではと訴えている。
結局、俺は理性よりも本能を優先させることにした。エレベーターに素早く乗り込んだ俺が『閉』のボタンを押すと、再びエレベーターはこの場の雰囲気をぶち壊すチン、という音を上げた。
行き先は俺が選ばなくてもすでにボタンが点灯していた。最上階の社長室だ。このビルは無駄に高いから、警察が突撃してきたときに一番逃げやすいのは最上階といえる。犯人にヘリコプターなどの移動手段があればの話だが。
チン、と再び間抜けな音、そして同時にエレベーターのドアが開く。まっすぐに正面を見つめる俺の眼前に、社長室の間取りが広がる。真ん中に置かれた応接用の座高が低いソファとテーブル、その奥には木製のデスク。
デスクには、やはりこのたてこもりの首謀者と呼べる人物――いや、ポケモンが佇んでいた。
山吹色を基調とした体、そして手に持ったスプーン。口元から伸びた長い髭が、感情を持つ生き物のように揺れているのが嫌でも目に付く。
フーディンだ。おそらくエイジ・モトムラの。
彼はまっすぐに俺を見据えていた。なにを考えているのか全くわからない、濁りきった、いや、あるいは澄み切った目をしている。フーディンはスプーンを持った手でソファの上座を指し示した。俺に座れと言っているのだろうか。だとしたら律儀に上座へ促したのが妙に人間臭くて、改めてこいつがトレーナーの手持ちなのだと思った。
俺の中で憶測が確信に変わる。やはり、この一件の首謀者はフーディンなのだ。主であるエイジ・モトムラが、今どうしているかはわからないが。
フーディンは“サイコキネシス”を使い、デスクの上に置かれていたノートと万年筆を応接テーブルの上までたぐり寄せた。そしてそのまま手を使わずに万年筆のキャップを抜き、露わになった先端を白紙のページの上に滑らせる。
『なぜ、私だとわかったのだ』
教科書や新聞に出ているような、規則正しい字だった。美しい字、とはまた違う。
なるほど、言葉を発することができないフーディンは筆談でコミュニケーションを取っていたというわけか。
俺は、ポケモンである彼が人間の言語を書きとれることに関しては別段驚かなかった。フーディンという種族はIQが五千にもなると言われている。となると、人間の言語を取得することなど朝飯前か、それよりも簡単なことでしかないだろう。フーディンたち……いや、ポケモンが言葉を発することができないのは、ただ単に声帯と舌が発達していないからにすぎない。
「なぜわかったかって? あんたの言う“話がわかる”奴というのは、自分の正体をわかってくれる人間のことを言っているんじゃなかったのか」
俺は逆に聞き返した。しかし、フーディンはなおも万年筆を動かさずにいた。どうやら質問に答えるまで沈黙を破る気はないようだったので、俺は渋々説明をする。
このたてこもりの首謀者がポケモンではないか、と俺が疑った根拠はいくつかあった。ひとつ、犯人がこちら側に電話をかけてくるときに、わざわざ人質を使って電話をしてきたこと。俺が今までに出会ってきた、似たような事件のほとんどの犯人は、変声機を使って自らが電話に望んでいた。そのほうが遙かに楽だし、なによりふとした拍子に人質が変なことをしゃべるリスクを背負わなくてすむ。まぁだからといって、人間の犯人でも人質づたいに電話をよこさないわけでは無いのだが、わざわざ連絡に人質を使ったのは、犯人が喋ることができない――つまりポケモンだったのでは?
ふたつ、電話口から犯人の声紋が検出されなかったこと。人質に自身の要求をしゃべらせるのなら、どうあがいても人質とコミュニケーションを取る必要がある。電話口の近くで指示を出すなら犯人の声が必ず受話器にはいるはず。しかし、先ほどの電話では犯人の声紋がいっさい検出されなかった。犯人が驚くほど慎重で、こちらに電話する前に指示を終えてしまったのなら説明が付くが、どうも今回のたてこもりはそうではない、と思った。
「まぁ結局、今言った根拠はすべて犯人がポケモンだったという決定的な証拠にはならない。平たく言えば……そう、俺の直感だった」
話を静聴していたフーディンは、俺のその言葉で再び筆を動かした。紙にインクがにじんで、文字をかたどっていく。
『“刑事の勘”?』
「よく知っているな」
『まさか犯人がポケモンだなどとは、あなた以外に誰も思わなかっただろうか?』
「あんたには残念な話だが、大多数はポケモンがここまで大きな事件を意図的に起こすとは考えもしていない。頭の片隅にも無いだろう。だが、俺は何でも疑うタチでね。ポケモンが犯罪を起こしたという選択肢を捨てられなかった。まぁ、俺のこの考え方はもっぱらマイノリティだがな」
俺はいったい何の話をしているんだ。犯人……いや犯ポケと、のこのこと喋ってる場合ではない。
「それで、あんたの目的は何だ。なぜこんなことをする」
そう、本題はこれだ。少し遠回りをしたがどうにか軌道修正はできそうだ。フーディンは相変わらず何を考えているのか全くわからない。俺から目を逸らさずにペンを動かす彼に、俺は不気味な怖さを感じた。……もちろんおくびには出さなかったが。
改めてノートに目を落とすと、そこにはこんなことが書かれていた。
『私たちの未来のためだ』
……と。
「未来のため、だと?」
私たちとは、つまりフーディンをはじめとするポケモンたちのことだろう。
未来のため。
言いたいことは何となく伝わる。しかし、理解も納得もしたわけじゃない。
「まるでポケモンに未来がないような言い方だな」
『その通りだ』
「興味深いな。……と、その前に」
俺は背をソファの背もたれから離れて前かがみになる。太股の上に肘を乗せ、くんだ拳に顎を置く。
「おまえの主、エイジ・モトムラはどこにいる? おまえがこんなことをしているのは知っているのか?」
ポケモンが起こしたトラブルはトレーナーが責任をとることになっていることぐらい、フーディンなら知らないはずがない。たとえモトムラがこのことを知らなくても、罪を背負うのは彼なのだ。
目の前のポケモンは表情を変えずに万年筆を走らせた。字が少し乱れている。
『エイジはここにいない』
「どこにいる」
俺がそういい終わる前に、彼は万年筆を滑らせる。
『エイジ・モトムラは死んだ……いや、殺された』
「……殺された? エイジ・モトムラが?」
どういうことだ、そんなことは一言も聞いていない。いつ、どこで、だれに――。俺の喉元まで出かかった疑問の数々を、俺はひとまず飲み込んだ。フーディンがさらに改行して次の言葉をノートに書き込んだからだ。
『エイジ・モトムラもまた、少数派であった』と。そしてこう付け加える。『だから死んだのだ』
「あんたが人質を取ってこのビルに立て込んだのは、エイジ・モトムラが殺されたからか」
『そうだ』
「少数派であったから殺されたとはどういうことだ。いったい誰が」
『焦るな、それを話さぬことには私があなたを呼んだ意味がない』
フーディンは、ノートにそこまで書き込んだところでページを繰った。そして彼は新たなページに、この事件を起こした彼の動機を、淡々と、記し始めた。
エイジ・モトムラは天才であった。驚くほどお天才であると同時に、驚くほど純粋であった。K社に入社した当時から、彼はその才能を買われ、製品開発部に配属された。そして、私もまたモトムラのパートナーとして、彼をサポートしていた。
製品開発の過程で、モトムラは私を“ポケモン”して扱わずに、ほかの研究者たちと対等の存在として接した。外部には極秘事項である試作品の設計図を惜しみなく見せ、会議にも参加させた。私に薬品の調合をさせ、顕微鏡を覗かせた。正直、モトムラの同僚はそんな彼を気味悪がっている節があった。たかが手持ちに、まるで人間の助手のようなことをやらせるのはいかがなるものか、とな。確かに、モトムラのやったことはただ単にポケモンを労働させることとは訳が違った。人間の使う製品の開発の一部を、ポケモンに担わせているのだ。反対の声や抗議が出ないわけがない。だが彼はそんな同僚の言葉は右から左に流していた。そして、開発チームの一員として扱ってくれたことに私はうれしくて、それが後にどのような結果をもたらすのか、考えられる知識を持っていながら深く考えなかったのだ。今思えば、それは私が犯した失敗の一つだったのだろう。
実際、モトムラの判断は間違いであり、正解だった。
彼の“ポケモンも人間と同じように扱うべき”という純粋な思想は、K社では少数派であった。そんな彼が、だんだんとチーム内でも孤立していったのは必然といえよう。それでも入社当時の肩書きからどんどん上へと上がって行けたのは、そのモトムラ自身の天才的な頭脳と、私という存在がいたからだ。
私は、彼らの製品開発に関わったことで、自らの考えで独自の調合や科学式を編み出し、新製品の開発に着手するようになった。私の編み出した新製品は、ほかの研究者のそれよりも優秀な出来となった。うぬぼれているのではない。ただ単に、人間と私とでは頭の構造が違かっただけの話だ。その結果、モトムラと私の名がK社の重役にも伝わることになるのは時間の問題だった。
モトムラは、入社して五年という超短期間でK社の幹部にまでのし上がった。そして彼は社の上層部の誘いにより、会社でも一部しか知られていない極秘の製品開発プロジェクトに参加することになった。
これが、間違いだったのだ。
極秘の開発プロジェクトとは、表向きには今までやってきた新薬品の開発と何ら変わりがなかったと言っていい。
新たにプロジェクトに加わった私たちは、上から伝えられた要求と条件に見合う製品の開発、実用化にいそしんだ。このプロジェクトが成功すれば、さらにいろいろな人の、そしてポケモンの、多くの命を救えると信じていた。
だが、実際はそうではなかった。
あなたも聞いたことぐらいはあるだろう、K社に立ちこめ黒い噂を。製薬会社の皮をかぶって、実際には兵器の開発をしているという、端から見れば突拍子もない噂だ。 しかし、そんな噂を笑い飛ばせるのは治安がよくて“平和ボケ”をしているこの国の人間たちの“大多数”だけだ。
そして、ここでもモトムラは“少数派”であった。
K社が取り組むこのプロジェクトの目的に、疑問を持ち始めた――K社が新しい薬品を開発して何をしようとしているのか、本当に誰かを救う為のプロジェクトなのか、それを疑い始めたのだ。
このプロジェクトを進める上の意図は? 私たちは、いったい何を開発している? K社の本当の目的は――?
噂が立っているのだから、モトムラ以外の人間もそんな疑問を間違いなく感じているはずだった。だが、その疑問を追求しようものなら、間違いなくK社のブラックリストに乗る。モトムラの同僚たちは疑問を解くことをいつしかタブー視するようになるのは暗黙の了解であった。それは同時に、K社に立ちこめる噂が事実であるということを暗に認めるということだった。
しかし、モトムラは運の“悪い”ことに天才で、純粋で、正義漢であった。
誰かが見ている場所では、私と一緒に研究に没頭しているように見せかけ、その裏ではK社の秘密を暴くために単身調査を始めた。
当然渡私も、モトムラの調査を手伝うつもりであった。しかしこの件だけは、モトムラは私の手助けを頑なに拒んだ。この調査がどれだけ危険かということを私が知らないわけではない、それでも手助けをしたいという私の意思をわかっていながら、彼は一人でK社に立ち向かうことを選んだ。前にも後にも、彼が私の協力を拒んだのはこの一度きりだった。
となると当然、今の私にできるのは、本当にK社のプロジェクト通りに新薬品の開発を続けることだけだった。
言われた通りの物を作る。私はそのことだけを繰り返した。
だがそれはつまり、“考えるということを放棄する”ということに気づいたのはだいぶ後になってからだ。IQ五千の頭脳を持っていながら、考えることを放棄したせいで私は最悪の事態を自ら招いてしまったのだ。
今でも私は思う。
あの時点で、深く考えていれば、と。
決定的なことが起きたのは、私が製品の開発に完成したときだった。
すべての研究過程を資料にまとめた私は、その研究成果を真っ先にモトムラへ報告をしに行った。彼は私と二人きりの空間で、資料を読みふけった彼は、とても複雑な表情で私のことを見た。今までのデータから彼の表情を分析すると、あのときモトムラは、嬉しさと、困惑がどちらも含まれているときのものだった。
「とても……とても素晴らしい開発だよフーディン。非の打ちようがない完璧な新薬品だ。それで、この薬品が実用化されるといったい何人を救うことができるようになる?」
私はペンを走らせる。私はA国を例に挙げた。
『紛争と伝染病が入り交じるA国だと、人の約三分の一を救うことができる』
「そうか……」
彼は私のシュミレーション結果に満足しているのだろうか。だとしたら、モトムラはどうしてそんな表情をするのだ?
モトムラはため息をついた。そして、憔悴しきったその瞳で、私を……いや、私の少し上の虚空を見つめる。
「よく聞いてくれフーディン。K社は、薬を使って誰かを救おうとする、健全な会社などではなかったんだ」
『なに?』
「僕たちが必死に誰かを救える薬を作ろうとしているその隣で、いくつかの同僚たちはバイオ兵器の開発を、堂々と行っていたんだ。これが、何を意味するかわかるだろう?」
私はとっさに筆が動かなかった。
K社の目的。なぜ、同じ会社内で正反対のことをさせているのか。理由は簡単すぎた。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。なぜ、モトムラ以外の研究者がどんな開発に携わっているかを気にしなかったのだろう。
「K社は、戦争で金を儲けようとしている」
彼はほとんど声にならない声でつぶやいた。
一方では、戦争屋にバイオ兵器を売り、そしてもう一方では、そのバイオ兵器によって被害を受けた者たちに、私が開発した薬品を売る。いや、兵器を売った時点で会社は潤っているはずだ。私の薬品はある意味K社の『名』を売るために作られたようなものだ。あれは、被害を受けた側からすれば、K社が救世主に見えるだろう。
長い、長い沈黙であった。秒数にして三百十七秒の沈黙の後、モトムラはやっと重い口を開く。
「……この資料は、封印しよう」
彼はそう言ったきり、再び口を閉ざして沈黙した。私は次の言葉を待った。
「フーディン、君ならこの資料がなくても、研究内容の一字一句を記憶しているだろう。しかし、これは世に出されるべきではないんだ。だから、この研究は、二人だけの秘密だ。絶対に誰にも言わない。いいね?」
モトムラの言い分は尤もすぎるぐらいだった。これがK社の上層部の手に渡ったら、悪用されるのが関の山だ。それに、私にはこの研究成果を捨てぬ理由がない。私は人間の作り出した紙切れにも硬化にも興味はなかったからだ。
『わかった』
私が筆でそう答えた。するとモトムラはそれに答えることなく、白衣のポケットからライターを取り出し、その火を何の躊躇もなく紙の束の先へ近づけた。世紀の新製品が記された紙が見る見るただの灰と化す様子を、私とモトムラはただ静かに見つめていた。
「もうすぐ、K社を警察へ届けるための証拠が揃いそうなんだ」
しばらくたった後、モトムラは努めて明るい声を出して私へ言った。その声は私の記憶の中で、よく彼が試験や面接の前に出す声と酷似していた。そして、こう付け加える。「だから、もう少しだけ君は知らないフリをしてくれ」
私は、了解の意を筆で表す代わりに、くるりと彼に背を向けて部屋から出ていった。モトムラとは長年の付き合いだ、わざわざ言葉にすることが無駄な労力だということを彼はわかってくれるだろう。
そして、私がモトムラを見たのはこのときが最後だった。
私とモトムラの研究室にいきなり数人のスーツ姿の男たちが入ってきたのは、新薬品の資料を燃やしてから数時間後のことだった。そのとき部屋には私一匹で、彼らは私に抵抗する間も与えず悪タイプのポケモンをけしかけた。元々研究室に閉じこもりきりでバトルなどしたことがなかった私は、彼らの技によって一瞬にして気を失った。
私が次に目を覚ましたときは、四方が真っ黒な壁に囲まれた狭い部屋であった。私はすぐに出口を探そうとしたが、どうやら扉は巧妙に隠されているらしい、私の視力では見つけることができなかった。“サイコキネシス”で壁を壊そうかとも考えた。しかし、いくら頭の中で計算を繰り返しても、納得のいく方法を見いだせなかった。私は、この屈強な壁を壊せるだけのサイコパワーを持ち合わせていなかったのだ。
最初は薄暗くてよくわからなかったが、部屋の隅には新品のノートとペンが置かれていた。これはどうやら、私のために用意されたものらしい。天井を見上げると、その中央にはスピーカーが取り付けてあった。すると、私がそれを見つけることを見計らったかのように――いや、実際にどこかで見張っているのだろう――そこから金切り声のようなハウリング音が響きわたった。
目が覚めたか、という声が聞こえてきた。知らない声だった。私は、生きてきた今までの歳月ですれ違ったすべてのニンゲンの声を記憶しているが、この声はスピーカー越しとはいえ聞いたことのない声だ。
おそらく、この声の主は私をここへ閉じこめたニンゲンの一人だろう。いったいなぜ、こんなことをしたのだろうか。
いや、そんなことを考えるだけ無駄だ。すでにあちら側の目的はわかりきっている。
私が書いて、モトムラが燃やしたあの資料。あれをもう一度私に書けということだ。
ここはそのための部屋だ。私を痛めつけ、研究内容を吐かせるための部屋だ。彼らは私腹を肥やすために、ポケモンをイキモノだと思わず、こうして部屋に閉じこめている。いつ気づいたのかは知らないが、おそらく彼らは私たちの動向にいち早く監視をつけていたのだろう。でなければ、あの場ですぐに燃やした資料の存在を知ることができない。
しかし、私は今後どんな痛みを味わおうと、拷問を受けようと、それに屈しない自信があった。なぜならば、私一人がどんな痛い目に遭おうと、私が新薬品の……いや、兵器の作り方をしゃべってしまった日には、その痛みよりもさらにひどい惨劇がこれから起こるということを、わかっていたからだ――。
エイジ・モトムラのフーディンは、ノートにそこまで書ききると、唐突に筆を止めた。“サイコキネシス”を使って筆を執ることに疲れたのだろうか。いや、だがその目に疲労の色はない。
フーディンはやはり、自らが作り上げ、モトムラが燃やしたあの研究資料をもう一度作り上げるように会社側から痛めつけられたのだろうか。どんなことをされたかなど想像もしたくない。ただ、その痛みは計り知れないものだっただろう。フーディンはそれによく耐えることができたものだ――。
『――肉体的な苦痛など、私にはどうということもなかったのだ』
俺の思考を読んだかのように、フーディンは高速でノートにそう書き留めた。あまりにも俺の考えていることが見透かされすぎて、正直このとき俺は背筋が凍った。
『私の心を折ることができるのは、外部からの苦痛などではなかったのだ。そう、私がここに立てこもってまで、K社に、そして世間にしらしめてかったのは――』
「――復讐、か。モトムラの死に対しての」
今度は俺が、フーディンの思考を先回りしてやった。そう、IQ五千を持つフーディンという種族が、ここまで賢明とは思えない人質を取った立てこもりを引き起こしたのには、知識以上に優先すべき“感情”が遭ったからだ。それはおそらく、“憎しみ”と呼ばれるものだろう。不惧戴天の恨み。いや、その言葉ですら及ばない強い負の感情だ。
「モトムラは……いったいどうやって……?」
『私があの部屋に閉じこめられて、一週間と三時間がたった時だ』
私はどんな拷問にも屈しなかった。しかし、やはり自分の身体は限界に近いほど衰弱していることは自覚していた。しかし、疲弊していたのは相手側も同じことだっただろう。研究内容は吐かせなくてはならない。しかし、私が死んでは元も子もない。これ以上どう痛めつければ私がおとなしくなるのか、彼らはそれを考えるのに躍起になっているはずだと思っていた。だが私は、この命がつきたとしても、新薬品の調合方法を明かす気などなかった。
そんなときだ。私の頭上にあったスピーカーが雑音を放ち始める。そして、そこから別の部屋にいるはずのK社幹部の声が聞こえてきた。どうやら、オフにしておくべきマイクをオンにしたままにしているらしい。
――た、大変です! も、モトムラが……!
――なに?
――絶対に死なないようにこっちも手加減していたのですが……!
――馬鹿野郎ッ! フーディンへの脅迫材料がなくなっちまったじゃないか!
私は頭が真っ白になった。先ほどマイク越しに聞こえたニンゲンの言葉が頭の中をこだまする。絶対に死なないようにこっちも手加減していたのですが。ぜったいにしなないように。ゼッタイニシナナイヨウニ――。
モトムラが……死んだ?
どうやらモトムラの方も、私と同じようにK社の幹部に捕まって拷問を受けているだろうということは予想に難くなかった。しかし、モトムラは私とは違う。生身のニンゲンだ。そんな彼に、私と同じようなことをしたらどうなるか……。
モトムラは……殺された。
その結論にたどり着くのは、たとえ拷問で疲弊しきったこの脳味噌でも容易にできた。数少ない正義を貫いていたモトムラは、数少ない愛情を私へ注いでいたモトムラは、ただただ、私欲のために存在するこの会社に……K社に殺された。
気づいたら、私はどこに隠し持っていたのかわからないありったけのサイコパワーを放出していた。意識などない。ただ、気がついてみれば、捕まった当初はあれだけ頑丈に見えていた、この暗いコンクリート壁の部屋は粉々になっていた。そしてそのすぐ横の部屋のニンゲンの身体は、おかしな方向に曲がって横たわっていた。
モトムラは死んだ。死んだ。殺された。
彼はよく、ヒトやポケモンを殺すことはあってはならないと言っていた。それは、生き物として一番愚かなことだ、と。
だが、どうすればいいのだ、モトムラ。私は、私の力で身体がねじれて死んだニンゲンを見てもなお、ニンゲンに対する憎悪が、そして、私の主人が死ななければならなかったこの理不尽な世の中に対する憤怒が、止まらない。
そうだ。復讐だ。この会社を使って、ここから、この社会に復讐せねばなるまい。ポケモンがこんなことをしてはおかしいか? ならば、そんな思想も塗り変えてしまえばよかろう。私がポケモンであろうと、ニンゲンではなかろうと、そんなことは関係ない。
私は一匹の生き物として、この世界に喧嘩を売る権利があるはずなのだ。
『モトムラは“数”に殺されたのだ』
フーディンが立てこもりを企てる間での経緯を書き終えると。今まで以上に筆圧を強めてノートにそう書いた。
『モトムラは正しいことをしようとしていた。だが、彼の考えは――彼の正義は、少数派であったが故に多数派につぶされたのだ』
「言いたいことはわかった。……お前がどんな気持ちでこんなことをしたのかも、な」
俺は高速で筆を動かし、黙っていれば一生何かを書き殴りそうなフーディンにそう言って手を止めさせた。
「しかし、な。立てこもりをするまではいい。が、お前はその後いったいどうするつもりなんだ」
正直、籠城や立てこもり犯が長く続いた試しはない。フーディンがもし捕まったら、ニンゲンではない彼が裁判を受ける権利などないわけで、即座に殺処理されてしまうだろう。ポケモンが起こした立てこもり事件ということで、少しの間世間で話題になるのかもしれないが、人々の記憶はすぐ風化する。フーディンはどうやって復讐を達成させる? いったいどうやってこの理不尽な世間に喧嘩を売るつもりだ?
『私が復讐したいのは、ニンゲンだ。腐ったK社の社員と、彼らが存在することを許しているこの社会のニンゲンたちだ。そして、その復讐を達成するには、私の力のみでは不可能だ。私以外の、ポケモンの力がいる』
「つまりあんたは、この立てこもりを世間にしらしめることで、自分と同じ志を持つポケモンを奮い立たせようとしているということか」
『理解が早くて助かる』
人間の持っている、いわゆる“人権”というものがポケモンには存在しない。道具と同じだ。なので、そのせいで人間に虐げられ、人間に恨みを持つポケモンも確かに少なくはないかもしれない。フーディンはそんな彼らに、自らのこの騒動を見せつけることで、ポケモンも人間のように、いや、それ以上の力があることを伝えようとしている。そして、フーディンのようなポケモンが増えれば、人間の社会はたちまち混乱に陥るだろう。
「あんたは、人間に取って代わろうとしているのか。ポケモンが、人間を支配しようとしているのか」
『本来ポケモンにはそういう力が備わっている。いままでやり方がわからなかっただけだ。ニンゲンと行動することで、それを忘れているだけなのだ』
「途方もないな。その壮大な計画が成功するとはとても思えない。たった一人からのスタートだ。ほかのポケモンたちがあんたのことを見ても、果たして同じようにニンゲンに復讐しようとする者が現れるのか?」
『途方もなく感じるのは、ニンゲンの知能指数が足りないからだ。私にはもう計画が頭に浮かんでいる。成功率は七十パーセント以上だ』
俺は思わずため息をついていた。もうため息が癖になりつつある。いったい俺は何をしているんだったか……。ああ、そうか。立てこもり犯の説得か。
「それで、あんたがニンゲンに復讐したいのはよくわかった。だが、それなのになぜ俺を呼んだ? “話が分かる奴”を呼んで、あんたはいったい何がしたい?」
『あなたは、モトムラと似ている』
「……なんだって?」
『常識に捕らわれず、柔軟な考えを持っている。立てこもりはニンゲンが起こすものだと決めつけず、こうやってわたしの話も最後まで聞いている』
「俺も少数派だからな」
俺が自嘲気味に言ったその言葉に、フーディンは反応しなかった。そして、念力でページを繰り、まっさらな紙の真ん中に、若干大きな字でこう書いた。
『あなたには、わたしに協力してもらいたいのだ』
「協力、だと?」
声が裏返った。いや、別に彼がそんなことを言ったからといってどうということはない。ただフーディンの口からまさかそんな言葉が飛び出るとは――ノートにそんなことを記すとは、予想もしていなかっただけだ。
「それはつまり、俺にあんたのその……フクシュウ? ポケモンが人間の社会を覆すのに手を貸せってことか?」
『人間社会すべてを覆すのではない。モトムラのようなニンゲンを増やさないように、ポケモンたちを奮い起こすのだ』
段々と、フーディンの言っていることに一貫性が無くなってきているように思えてきた。彼は俺に、この世界に、いったい何を求めているのか。
「そうだな……もし俺があんたに協力したとして、俺は具体的に何をすることになる?」
『あなたには、私の“声”となってほしい』
「声?」
『やはり、私たちがニンゲンにどうやって過訴えようとしても、所詮ニンゲンの言語を扱うことがでないことには訴えようがないのだ』
「あんたは字が書けるじゃないか」
『字だけでは足りない』
フーディンの言い分に俺は言葉が尽きた。どうあっても、こいつは自らの意志を、復讐をあきらめる気はなさそうだ。
俺はたっぷりと沈黙をためた。フーディンのこの誘いは、簡単にはいと答えられる者ではない。いや、もちろん俺のなかでは最初から答えなど決まっているのだが、いくら考えても当たり障りのない答え方など俺の頭では導き出すことができなかった。
「悪いが……断る」
だから俺は、簡潔に答えた。
『なぜだ』
フーディンは俺の回答を最後まで聞かぬうちからノートにそう書き殴っていた。どうやら、俺がそう答えることを予想していなかったらしい。実に意外だ。
「なぜかだって? 俺は警察官、あんたは犯罪者。理由はそれ以上もそれ以下もない。……いや、やっぱり誤解しないように言っておこう。俺がたとえ警察官じゃなかったとしてもあんたのお誘いにはノーと答えてたぜ」
『私は、あなたがポケモンのことを他とは違う観点で見ていると思っていた』
「もちろん、あんたの怒りも恨みもわからなくはないし、ポケモンを生き物として扱わないこの人間社会はおかしいと俺も思っている」
『では、なぜ断ったのだ』
フーディンは高速でノートに字を書き、俺に『なぜ』の答えをせかす。思わずため息が漏れて、静かな室内にやけに大きく俺の息の音が耳をついた。社長室は無駄に広い。
「正直に言う。俺はあんたのやり方が気に食わないんだよ」
『何が気に食わないのだ』
「あんたが本当にこの社会を変えようと言うなら、立てこもりなんて姑息な犯罪手段なんぞ使わず攻めるべきだ。犯罪者の話なんか誰がまともに聞く?」
こんなに周りに迷惑がかかるようなことをした人間――いや、ポケモンか――が、後でいくら正当な主張をしたとしても、それは犯罪を犯した者の主張であり、まともに聞いてくれる奴などいない。
『私のしていることがすでに道をはずれていることは自覚している。だが、それ以外にどうすればよかったのだ。いままで波風立てずにこの世の理不尽を覆すことができた者などいない。たとえ賢明とはいえない手段でも、誰かがやらねばならぬのだ』
「あんたは先駆者って訳か? だがな、あんたは目的が曖昧だ。ただ主人が死んだことに対する一時的なショックで動いているにすぎない。冷静に考えろ」
『考えることなら、閉じこめられていたあの部屋で嫌というほど考えた。だがやはり、導き出される答えは一つだけだ。私たちは、戦わなければ勝てない。人間にも、この世にもな』
「……」
俺は次の言葉が紡げなかった。
やはり、フーディンはポケモンなのだと思った。ポケモンは高知能な種族もあるが、原始的な生き物だ。なにかを成し遂げるためには、まず戦うことを手段に選ぶ。戦うことで物事を解決しようとする。
たとえIQが人間の遙か上を行っていたとしても、たとえ人間の言葉を書くことができても、その根っこに変わりはない。
やはり、彼にこれ以上の説得は無理だ。
「フーディン、もうこんなことはよさないか」
俺はソファにふんぞり返る素振りを見せながらポケットに両手を突っ込む。中には無線が入っている。スイッチを入れてどうにか応援を呼ぶしかない。
『あくまで、協力はしないというのだな』
「ああ。それにな、あんたが人間に復讐したいというのなら俺の力なんか借りる時点で間違ってるんだよ」
『そうか……私が、甘かったようだな』
「……!」
無線を握る手が動かなくなった。いや、手だけではない。全身が硬直してる。
動けない。
『協力できないというなら、やはり、そのまま帰すわけにはいかない』
「何しやがった」
『愚問だ。あなたならわかるだろう。私が今何をしているのかも、これから何をしようとしているのかも』
フーディンがスプーンを持った手を少し動かしただけで、俺の手がポケットから離れて、その手から無線が地面に落ちる。そして、俺はそのままデスクに叩きつけられた。
「ぐっ」
ミシ、と骨が軋む嫌な音が、脳内に直接響くかのように聞こえた。全身が鉄のおもりに押されているような感覚だ。肋骨が圧迫されて痛い。肺から空気が押し出されて息ができない。
俺がかろうじて目だけをフーディンの方へ向けると、やはり彼は濁っているのか澄んでいるのかわからない瞳をこちらに向けている。その手がさらに高く上がる。
ボキッ、という音がした。たぶん肋骨が二、三本折れた。
圧死するのが先か、窒息死するのが先か。どちらにしても、フーディンは俺を生かして帰す気がないらしい。迂闊だった。俺は丸腰できてしまった。ポケモンの技を食らっては、生身の人間が逃げられるわけもない。
段々と視界が遠のく。世界が白と、黒と灰色の世界に染まった。
俺はもうだめらしい。
意識が遠退くその寸前、ピカッと閃光のようなものが走った。あれは、なんだ。幻覚か……?
どっちにしろ、死んじまったらもう関係ないか――。
「……あ、先輩? せんぱーい。聞こえますか? 鼓膜とか網膜いっちゃってませんか? もしかして記憶喪失になっちゃってません?」
……視界いっぱいに広がる童顔に、意識が完全に覚醒していないながらも俺は拳をその腹に決めてやった。彼は低い奇声を発しながらのけぞり、涙目ながらに「あ、いつもの先輩だ」と漏らした。
童顔の顔が離れたことで周りの状況を知ることができた。どうやら、ここは病院のようだ。四方が白い壁に囲まれた部屋なんて病院以外に思いつかない。俺はいったいどうしたのだろう。俺は確かフーディンと対峙していて、彼に攻撃を食らって意識が遠退く前に、一瞬閃光を見たような……。
――そうか。
「おい」
俺は童顔の名を呼んでベッドから起きあがろうとした。が、胸に激痛が走ったのでそれはできなかった。肋骨が数本折れていることを忘れていた。俺の反応を見た童顔はあわてて俺をベッドに押さえつける。心配性なのは別にかまわないが、押さえつけられた方が痛みが強くなったのだが……。
「あの閃光は、お前の仕業か」
少し落ち着いたところで、俺は童顔にそうきり出した。
「いや、お前の仕業と言うより、お前の相棒の仕業だな」
「……すいません先輩」
シラを切るのかと思いきや、童顔はすぐに申し訳なさそうな顔になってそう謝ってきた。こいつのこういう顔を見ると、俺の方がいたたまれなくなってくる。
童顔はスーツの背広のボタンを開いた。するとその懐から、サササ、と何かが這い出る。俺の手のひらよりも小さい、黄色い体に四本足を持った青い目のポケモン――バチュル。童顔のパートナーだ。
あの閃光……俺が気を失う寸前に見たあれは……。
「“十万ボルト”か」
「す、すいません先輩。先輩がポケモンをつれて歩くのを嫌がるのは知っていたんですが、どうしても丸腰で行く先輩が心配になってコートのポケットに――」
「いい。……助かった」
俺は枕に重い頭と思考も全部預けて、深く息を吸い、吐く。
あのあと、モトムラのフーディンはどうなったのだろう。警察はモトムラの死を知っているのだろうか。俺はまずそんなことを考えた。K社の人質の無事を先に考えない俺は不謹慎だろうか。
「あの……立てこもりの方なんですが……」
まるで読心術を使ったかのように、ピンポイントなタイミングで童顔が切り出す。
「バチュルが不意をついてフーディンを気絶させて、そのまま機動隊を突入させました。社長室に行ったとき、倒れているあなたとフーディンを見つけて――」
童顔が一瞬言葉を詰まらせる。しかし、俺がまっすぐに彼のことを見ていると、睨まれているとでも勘違いしたのか、慌てて続けた。
「先輩を保護してフーディンを拘束しようとしたところ、彼が目を覚まして攻撃態勢をとったので……その……射殺、しました」
「……そうか」
機動隊の持っている銃は、正直ポケモン相手に殺傷能力を持っているといったらそうではない。あくまで人間を牽制するために持たされているものだ。しかし、相手は紙ほどの防御力しかないフーディン、しかも研究室にこもりきりで鍛えもしていないモトムラの手持ちだ。銃を急所に受けたら、そうなるのは当然のはずだ。
結局、彼の壮大な計画は実現はおろか、実行に移すまでもなく破綻したというわけか。なぜだろうか。これで世間を脅かす危険思想が一つ潰えてとても喜ばしいはずなのに、今は言いようのない虚無感が俺の胸の内を支配している。
――モトムラは“数”に殺されたのだ――。
フーディンが書いた教科書のようなあの文字がよみがえる。正義を貫いたはずの若き研究者は、その思想が少数派であったが故に殺された。主人の理不尽な死に、残された手持ちが絶望し、復讐を企てるのはある意味自然な流れだ。それがたとえポケモンでも。俺自身も他には理解されない考え方を持っているので、少数派が潰される苦しさを知っている。
だが、俺はあのときどうすればよかったのだろう。どうすれば最善の行動と言えたのだろう。フーディンが死んでしまったのは、もしかしたら俺のせいなのではないか。俺がもっと考えていれば、フーディンは今もこの世にいたのではないか。
「――先輩」
ふと閉じていた目を開けると、童顔が俺の横に立っていた。そして、後ろに回していた手を前に回す。その手にはノートが握られていた。
フーディンと会話をするときに使った、あのノートだ。
俺は無言でそれを受け取り、ページを繰る。俺と彼が行った会話のページ、そして彼の過去をつづったページ、教科書のような字体が、めくっても、めくっても途切れることが無く続く。
俺はふと、とあるページで手を止めた。会話でも出てこなかった見覚えのない文字に、俺は目を走らせる。
そこには、こう書かれていた。
『私は数に負けた。小が大に勝つには一体どうすればよかったのだ――?』
(19505文字)