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初版公開:2014年9月5日


●はじめの一匹

▼ 作:鈴志木 さん

 どうしよう。
 もうすぐホームルームが終わるのに、最初に捕まえるポケモンが決まっていないのはきっと私だけだ。
「オレはビードル! 休み明けにはスピアーまで進化してるぜ」
「無難じゃん。一番最初の手持ちだぜ。ヘラクロス一択に決まってんだろ」
 男子は下校してすぐに近くの山へ虫ポケモンを取りに行くらしい。遠くの親戚の家へ泊まりに行くついでに、ちょっとした捕獲の旅をする子もいる。夏休み中はずっと暑いし日焼けするし、私はそれはちょっと。でも、自分の実力で捕まえるのは捨てがたい。
「やっぱり神社の裏手にいるポッポだよね。いつも餌をあげてるから、きっとボールに入ってくれるよ」
 いつも教室の隅でお絵かきしてる控えめ女子グループ達は、たむろってる遊び場を住処にしているポケモンを狙っているらしい。馴染みの子を捕まえるなんていいな。でもグループ違うし、既に餌付けしてるみたいだから割り込みなんてできる訳ない。
「最初の一匹目だもん、絶対可愛いポケモンが良いよね。ブリーダーさんにイーブイ予約してるんだ」
「いーなー! あたしはロコン頼んでる。貰ったら、すぐにハート柄のリボン付けるよ」
 クラスでも目立つちょっぴりギャルでお洒落な女子のグループは、ポケモンブリーダーさんに頼んで可愛いポケモンを引き取るつもりらしい。人気のポケモンはすぐに貰い手が付くから、当然事前に予約済み。私も随分前にこのグループのリーダー的存在でイーブイを引き取る予定のユミちゃんにカタログを貰ったけど、毎日ページとにらめっこしている間に一学期の終業式がやってきた。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? 決めた?」
 ユミちゃんが癖のないロングの黒髪を揺らしながらにっこりと私に尋ねる。その笑顔はイーブイがやってくる喜びに溢れていて、私は焦りで太ももがじんわりと汗ばんできた。
「ま、まあね」
 椅子から少しだけお尻を浮かせて、作り笑いで返した。多分、とても引きつっていたと思う。ホームルームが終わったら、配られた宿題をランドセルに詰め込んで、一緒に帰ろうと誰かに誘われる前に教室を飛び出した。友達は多い方だけど、今日は誰とも帰りたくなかった。だって私はまだ“最初のポケモン”を決めていない。今日の下校の会話は誰と帰っても絶対その話題になるはずだから、ずっと遠くに置いていかれそうになるじゃない。

 私の街では十歳になったらポケモンを持てるようになるんだけど、すぐに手に入れると誕生日がまだの子が羨ましがるからってことでクラス全員が十歳になって長旅にも出られる五年生の夏休みに一斉に解禁されることになってる。これは街中にある小学校では皆同じルール。そこまで平等にしなくていいと思うんだけど、遠くの街で十歳でポケモンリーグのチャンピオンになった子が出てるから公平に、ってことらしい。リーグチャンピオンなんて普通の大人でもなれるものじゃないのにね。
 こんなルールがあるので、小学五年生になったらクラスのみんなは一学期ずっとそわそわして休み時間も最初に捕まえるポケモンの話題ばかり。男子は自力で捕獲することが多く、女子は自力もしくはブリーダーさんから譲ってもらうの半分半分くらいかな。一学期の間にポケモンを決めて準備して、夏休みにそれを実行する訳だけど……私はポケモンが決まらないまま夏休みを迎えてしまった。下校途中の木々に留まってる蝉が、みんみん鳴いて私を逸らせる。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? 決めた?」
 きっとユミちゃんと同じことを聞いているに違いない。
 最初はユミちゃんや同じグループの子達のように可愛いポケモンをブリーダーさんから譲ってもらおうと思っていたんだけど、気になっていたピッピは先を越されていたので興味が薄れた。最初のポケモンの種類が被ると、二学期からちょっと気まずい。それに私は一匹目のポケモンは貰うよりも捕まえたいんだ。
「このボールで……」
 私は手提げバッグのポケットから、星形シールを貼ったモンスターボールを取り出す。金色のラメが眩い太陽に反射して、きらきらと輝いてとても綺麗だ。すごく気に入っているこのボールは先月おばあちゃんが買ってくれたもので、これを使いたいからブリーダーからボール受け取りの“カタログポケモン”を選ぶ気にはなれなかった。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? 決まってないの、きっと君だけだよ」
 蝉があちこちから私に問いかける。ボールを握る手がじわりと汗ばんだ。
 夏休みなんてあっという間だ。四年も経験してるから間違いない。最初にだらだらしていると、宿題はどんどん溜まって八月末に泣きを見る――何事も、最初が肝心だ。
 だけど、私にはこれと言って欲しいポケモンがいない。一学期の間、目当てのポケモンが決まらなかったのも、これが原因。図鑑やカタログをめくったり、時折通学路で野生のポケモンに遭遇するけれど、ピンとくる子はいない。
 そんなことを溢すと、お母さんは決まってこう言う。
「焦って夏休みの間に捕まえなくてもいいのよ。巡り合わせなのよ、そういうのって」
 結局下校途中に考えても最初のポケモンは決まらず、家に帰ってお昼を取ることにした。予想通りの素麺。お母さんは夏休みが始まると週三ペースでお昼に素麺を出す。私は嫌々麺を飲み込んだ後、唇を尖らせて反論した。
「でも夏休み明けたら皆ポケモン捕まえてるよ。恥ずかしいよ、一匹も持ってないのって」
「あらあら、ノゾミは世間体を気にしてポケモンを手に入れるのね。お母さんはちっとも気にならないのにねえ、ウーちゃん」
 お母さんはテーブルの反対側でウパーのウーちゃんと素麺を食べながら、顔を合わせて微笑んだ。そりゃそうだよ、お母さんは既にポケモンを持っているんだから。
「お母さんの初めの一匹はウーちゃんだったの?」
「そうよ。六年生の春休みに手に入れたの」
 で、バトルが苦手だからまだウパーのままなんだ。仕事に行ってるお父さんが持ってるエイパムもそう。どちらのポケモンもオスで、うちにはおじさんが三人もいることになる。でもお腹の出てきたお父さんとは違ってポケモンはいつまでも可愛いから気にしない。
「ウーちゃん、市民プール行こ!」
 私は素麺を食べ終えると、食器を洗ってマンションのベランダで涼むウーちゃんを覗き込んだ。ウーちゃんは暑さに弱いから、夏はいつもベランダに水を張ったたらいを置いてその中でぷかぷかと浮かんでいる。
「ウーちゃんはこれからお母さんと病院よ。お友達と遊んで来たら?」
 腰を浮かせかけたウーちゃんを引き留めるように、キッチンからお母さんの声がした。今日は皆、カタログポケモンの引き取りに行ってるんだよ。予定が合う訳ないじゃん。
 ふてくされて、リビングのソファに寝転がる。傍に置いた扇風機の風力は最大にした。お母さんは予定ないなら宿題進めなさいとか、洗濯物畳んでおいてとか言っていたけど全部ボイコットだ……いや、怒られるから夕方ちょっとだけ手伝うけどさ。「暑かったらエアコン付けていいからね」なんて言ってウーちゃんと出かけて行った。エアコン、身体の芯まで冷えるから苦手。私はこのマンション七階の部屋を抜けていく、さっぱり涼しい夏の風が好きなんだ。窓辺に吊るした風鈴がちりんと鳴る音を聞いていると眠くなって。 
 そして気付いたら夕方になっていた。
 黄金色に染まる空に、風鈴を揺らす生温い風。出鼻をくじかれるって、こういうことだよね。汗だくで、ただひたすら虚しい寝起きだ。まだ外で鳴いてる蝉達が、口を揃えて私を咎める。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? 何も決めずに寝ていたの?」
 はい、その通りですよーだ。
 ひとまず冷蔵庫に駆け寄って、買い置きしているラムネで水分補給。絶妙な力加減でビー玉を押して栓を開けると、少しも零れることはない。お父さんも絶賛するラムネ開けの腕前なんだ。これを飲むだけで、寝過ごした夏の一日を取り戻した気分になる。ベランダに出てぐいっと一杯やっていると、夕暮れのご近所の上空をひらひらと舞う大きな黒い影。
「ズバットだ」
 夏の夕方、この辺をよく飛んでる大きなコウモリだ。身長八十センチもあって、夜行性で、昼間は洞窟や暗い所で群れになってじっとしている――一学期にポケモンの情報を集めるために読んだ図鑑に載ってた。あんな大きなコウモリが密集してるのを見たら、失神しちゃうかも。だけどあのズバットは群れではなく、何故か一匹。おぼつかない様子で、ふらふらとあてもなく空を飛んでいる。いや、そう見えるだけできっとあの子はあの子なりに目的があるはずだ。
 だけど、なんだか私みたい。
 このまま初めの一匹が捕獲できずに二学期を迎えたら、あんな風にクラスの中をふらふら漂う存在になるんじゃないかな。今と大して変わらないかも。そこそこ仲のいい友達はいるけど、多くは適当に周りに合わせる人付き合い。そこばっか気にしてたから、最初のポケモンも決まらない。ああ、自己嫌悪。しんどくなってきて、穏やかな涼しい風もシャットアウトした。窓を閉めてカーテンを引いて、テレビとエアコンを付ける。ズバットを見ないようテレビに集中すると、ルールすら分からない野球のナイター中継も何だかちょっと面白く思えるかもしれない。

 とりあえず夏休み中にポケモンを持っとかなきゃいけないんだけど、でも妥協はしたくない。
 可愛いカタログポケモンもいいんだけどピンとこないしグループで被りそうだし、かといって近場に自力で捕獲したいポケモンもいないし。ひたすら図鑑やポケモン雑誌とにらめっこしているうちに八月になった。もう私の焦りはマックスで、カレンダーが目に留まるたびにぶわっと鳥肌が立つ。日に日に暑さが増していくのに、その瞬間だけひどい寒気がする。ポケモンが嫌いになりそうだった。クラスメイトと遊ぶたび、ポケモンを持ってくるから尚更辛い。彼女達はブリーダーから貰ったとっても可愛いポケモンを抱っこしたまま私に言うんだ。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? まだ決まってない?」
 私は言葉を濁して苦笑い。
「うん、そうなんだ。でも二学期始まるまでには捕まえるよ」
「だよね。そしたら皆で見せあいっこしようよ。手作りのアクセやおやつも作ってあげたいよね」
 これ、一学期から女子の間で言ってきた台詞。二学期から皆で集まって遊んだ時に、ポケパルレが加えられちゃう……お母さんもお父さんも焦らなくていいとは言うけれど、ポケモンが居ないと仲間外れになる。でも、適当に選べない。
「今からでも知り合いのブリーダーさんに掛け合ってみようか? 可愛いポケモン、残っているかも」
 八月四日、日曜日の昼過ぎ、雑誌に埋もれる私を見てお父さんが尋ねてきた。
「いい……この時期になると殆ど貰われてるってユミちゃん言ってた」
「でも“残り物には福がある”って言うし。このパミュだってそうだよ」
 私の顔を覗き込むお父さんの肩から、エイパムのパミュが顔を出す。夏バテと焦りでぐったりしてる私を笑わせるべく、得意の変顔をしてくれるけど今はそんな気分じゃない。もう八月も四日目なのに、何の進展もないなんて。
「もうちょっと悩む。いざって時は、おばあちゃんちにポケモン取りに行く」
 おばあちゃんは遠くの街に住んでいて、お盆に泊まりに行く予定。生息しているポケモンはこちらと大して変わりないけど、ピンとくる子がいるかもしれない。星のボールを見せながら言うと、お父さんとパミュはにっこりと微笑んだ。
「そうだね、今日うちに来た時に聞いてみたらどうだい。これからお母さんと花火大会の買い出しと、駅におばあちゃんを迎えに行くけど、ノゾミも来る?」
 そうそう、今夜は街の花火大会。
 うちのマンションのベランダから見られるから、毎年おばあちゃんを呼んで一緒に楽しんでいる。去年まで待ちわびていたくらいなのに、今は何だか憂鬱だ。この状態で車に乗ったら酔っちゃいそう。
「行かない。留守番してる」
 ごろんとソファに寝そべってポケモン雑誌をめくっていると、やっと支度を終えたお母さんの声がした。お母さん、お化粧にいつも一時間くらいかけるんだ。その割に代わり映えしないけど。
「じゃあ宿題、少しくらい片付けなさい。いい気分転換になるわよ。おやつは冷蔵庫に手作りのココナッツプリンが入っているから」
 代わり映えしない「宿題やりなさい」におやつのココナッツプリン、ついでにお昼の素麺。もう飽きた。でもそれを言うと怒られるから、適当に返事してまたソファに寝そべる。バイバイ、と手を振るパミュに返事してそこからお母さんとお父さんを見送った。うちのマンションは風通しがいいから、玄関の扉が開いたら窓辺の風鈴が激しく鳴って、落ち着いて、そして蝉の声だけになった。
 あちこちから響く大合唱。やがて世界は私と、蝉の声だけになる。
「ノゾミちゃんは初めの一匹、何にするの? 可愛いイーブイやピカチュウでいいんじゃない?」
 そうだね、可愛いポケモンを毎日抱きしめながら過ごすんだ。でもそれって、ぬいぐるみで足りるかも。
「山へ行ってキャタピーを捕まえて、二学期までにバタフリーにすればいい」 
 それなら男子から一目置かれるかも。でも進化は早いけど、虫ポケモンはちょっと苦手だし。
「おばあちゃんちの街でアチャモを捕まえて、あちこちのジムを巡ってバシャーモに進化させ、ポケモンリーグを目指すのは?」
 私が第二の十歳チャンピオンに。おお、それってすごいことだ。こんな私が一躍大スターに――いや、バトルにはあんまり興味ないや。そもそもあれって才能ないと無理でしょ。
「優柔不断、ふらふらしてる。ノゾミちゃんはふらふらしてる」
 蝉達が私の傍へ寄ってきて、煩い声で非難轟々。夕方になると孤独に空をふらっと飛んでるズバットみたいだって言うんでしょう。そうだよ。でも初めの一匹は妥協したくないし、もう少しゆっくり選ばせてくれたっていいじゃない。それが駄目ならポケモンから来てくれたっていい。蝉よ、文句があるなら誰か一匹くらいテッカニンになってくれないかな。
 私が彼らをきっと睨み付けると、蝉は目の色を変えてこちらに飛びかかってきた。数百匹の蝉の群れが一つの黒い塊になり、コウモリのような翼を広げて体当たり――悲鳴を上げる前に額にゴツン、と鈍い音がして視界が回る。回って、回って、私はソファから転げ落ちた。
「ゆ、夢……?」
 また寝ちゃってたのか――だけどいつもの寝起きよりひどい頭痛がする。ぐわんぐわんと視界が揺れるので、額をさすってみたらコブができていた。何かが頭に当たったんだ。身体を起こした途端、ソファの上から夢で見た黒い塊が飛び込んできて私は「ぎゃあっ」と飛び上がった。それと同時に塊も鋭い声を発しながら跳ねて、天井高く羽ばたいた。
「ズバット!」
 ちかちかしていた視界が落ち着いて、やっと確認できた黒い塊の正体はベランダから侵入してきたズバットだった。天井へ飛び上がったコウモリはそのままゴツンと頭を打って、床に倒れ込む。コメディかと思うほどの派手な転げっぷりに私は硬直した。間近で見ると本当に大きい。身体は低学年の保育園児くらいあるし、翼はその倍くらいある。こんなのが急に入ってきたうちのリビングはたちまち狭く感じられた。それはつまり逃げ場があんまりないということ。そう思うと自然と涙がこぼれた。
「お母さーん、助けてー!」
 一緒におばあちゃんを迎えに行かなかったことを後悔した。もつれる足で自分の部屋に逃げ込もうとした途端、ズバットがこっちへ飛びかかり、飾り棚にぶつかってまた倒れた。そりゃもう派手に。お父さんのサインボールコレクションもぐっちゃぐちゃ――これは、私の血を吸おうとしているのか。コウモリのご飯は人やポケモンの血液だって言うし。こんなデカイのに血を吸われたら、絶対死んじゃう。そんなの嫌だ。まだ最初のポケモンすらお迎えしていないのに! 
「やだー、来ないでよー!」
 涙と鼻水まみれのままキッチンへ逃げ込み、軽くすすいで流し台に置いておいたラムネの空き瓶を掴んだ。これで応戦しよう。気絶させてベランダへ移動して窓を閉め、お母さん達が帰ってくるのを待つんだ。もうすぐ夕方だから、そんなに時間は掛からない。両手で逆さまにしたラムネの瓶を握りしめ、中のビー玉をからからと動かしていると――ズバットはふいに顔を上げてきょろきょろと周りを探るように首を動かし始めた。その時、ベランダから爽やかな風が流れ込んで窓辺の風鈴がちりんと揺れる。するとズバットはピンと耳を立てて、すぐにそちらへ顔を向けた。これは、もしかして――
「お、音に反応してるだけ?」
 思わず発した声に、ズバットがこちらに顔を向けた。私もびっくりしたが、向こうもちょっと驚いてる。涙をぬぐって目を凝らしてみると、その顔には口と耳しかついていなかった。それで私は図書室で読んだ図鑑の内容をもう一度引き出した。ズバットは目がないから、超音波を出して周りの様子を探っているんだ。だけど今は身体をあちこちぶつけてぐったりしているから、耳を使うしかない状況なんじゃないのだろうか。
「だ、大丈夫……?」
 おそるおそる近付いてみると、ズバットは小さく「キィ」と鳴いた後、頭をくったりと床に伏せる。結構やばいんじゃないか? 廊下の物入れに入っているポケモン用の傷薬を取ってこなくちゃ――私の足が勝手に動く。そしたら飾り棚の下いたズバットも、ほふく前進するようにこちらへ近寄ってきた。追いていかないで、と言わんばかりだ。こんなに弱っているのに、無視する訳ないじゃない。
「大丈夫だよ、見捨てないよ。薬を取りに行くだけ」
 運動会でも出したことがない瞬発力でダッシュし、薬箱を持ってきて中身をひっくり返し、ポケモン用のスプレー式傷薬をズバットに吹きかける。洗車機みたいに、とりあえず隅々まで。お母さんの見よう見まねだ。そしたらちょっとだけズバットの顔色が良くなったような気がした。だけどまだ元気がない。
「もしかしてお腹空いてる? 私の血はあげられないけど、他に何を食べられるの?」
 ズバットは首を傾げ、キィとか細く鳴くだけだ。その仕草が、お腹が空きすぎてお母さんにメニューをリクエストする気力すら湧かない時の自分と重なって、私はリビングテーブルに置かれていたお父さんのタブレット端末を急いで起動し、「“ズバット”、“食事”!」と、音声検索。最初に飛び込んできた『ミルク』の単語を見て冷蔵庫へ走り、使いかけのココナッツミルク缶を掴んで自分のシリアルボウルに中身を移し替え、ズバットの前に差し出した。
「こ、これ甘くておいしいと思うよ」
 ズバットは警戒しながらボウルの臭いをかいだり、中を覗き込んでいたけど、やがて安心したようにペロリと舌を出して、ちびちびとミルクを飲み始めた。やっぱりお腹空いていたのかな。夕方飛んでいるのだって、ご飯探しているんだよね、きっと。大きな翼を折りたたんで、ボウルに顔を突っ込むくらいがっついてる。その姿はちょっと間抜けで、そして、
「可愛い……」
 頬が緩んで、思わず声が出た。するとズバットがそれに反応し、顔を上げてにんまり笑う。口の周りはミルクで真っ白、サンタクロースみたい。吸血鬼じゃなくてサンタさんか。超メルヘンで、とうとう私は吹き出した。そしたらズバットも嬉しそうに鳴きだして、訳も分からずしばらく一緒にゲラゲラ笑っていた。
 それがようやく止まったのは、五分くらい後。
「ノゾミ! これ、一体どうしたの!」
 帰宅したお母さんが開口一番、ぐっちゃぐちゃのリビングに雷を落としたからだ。笑い転げていた私とズバットは揃って硬直、効果は抜群。もしかして私、飛行タイプなのかもしれない。
「ズバットが入ってきてね……」
 慌てて説明しようとしたら、お母さんの後ろから白髪頭のおばあちゃんがひょっこり顔を出し、目を丸くする。
「その子、ノゾミちゃんが捕まえたの? すごいじゃない!」
 いや、この子はまだ野生で――と言いかけた唇がピタリと止まった。あんなに怖かった巨大コウモリなのに、気付けば傍に寄り添って一緒に笑っている。何だろう、この親近感。こっそりズバットの頬を突くと、この子はさっと私に向いて声を弾ませた。私の心にじわりと喜びが滲む。可愛い、今まで見たポケモンの中で間違いなく一番可愛い。このまま野生に返すなんて勿体無いくらい。この出会いはきっと運命だ。
「……ねえ、私のポケモンになってくれないかな?」
 人の言葉なんて分からないだろうけど、一応聞いてみる。そしたらズバットが大きな翼を広げてまた嬉しそうに鳴いたから、私の気分も最高潮で「ありがとう!」とそのままぎゅっと抱きついた。青い体毛は毛先が短く、ココナッツの表面みたいにちくちくするけど、慣れればきっと気にならないよ。

「まさかノゾミがズバットを最初のポケモンにするとは思わなかったわ。てっきりノーマルタイプかと」
 ベランダに置いたキャンプ用のテーブルにお料理を並べながら、お母さんが私に微笑む。外はすっかり暗くなって、あと数分で空に花火が打ち上がる頃。蝉の声も落ち着いて、夏の涼しい夜風が窓辺の風鈴と、それと並んで垂れ下がるズバットを揺らしていた。
「“ココ”が世界で一番可愛いもんねー。ほら、私のシュシュをあげるよ」
 私は“ココ”の耳に買い集めていたシュシュを付けてあげた。青と赤のストライプ柄のとっておき。目のないココは不思議そうに首を傾げている。それを見たおばあちゃんが代わりに私を褒めてくれた。
「あら可愛らしい。ニックネームはココにしたのね。いい響きね」
「ココナッツミルクが好きだし、見た目もココナッツが繋がってるように見えるからね」
 しかもメス。こんなにベストなニックネームはないでしょ。私はココの傍に椅子を移動させ、お母さんが揚げてくれたフライドポテトをつまみながら花火に備える。毎年楽しみにしていた花火だけど、今年は特に心が高ぶって一緒に弾けてしまいそうなくらい。だって初めてのポケモンと見る花火だもん、友達と騒ぐのとはまた違った楽しさがある。
 椅子に座っているのも我慢できなくなっていたら、察してくれたのか急に空が瞬いてぱあっと大きな花が咲いた。
「ココ、花火だよ! 見て……」
 思わずココの頬をつついて花火の方を指したけど、ココは音に合わせて歌うように鳴きながら耳をピコピコ上下させているだけだ。そうだ、この子は目がないんだった。シュシュも花火も、結局私の自己満足か――がっくりと肩を落としたら、傍で見ていたお父さんが優しく笑ってくれる。
「ココが進化してゴルバットになれば、花火を見ることができるよ」
 あ、確かにその通りだ。
 ポケモンって、私が安心したり満足するための存在じゃないんだ。これから長い付き合いを始めていく、大切なパートナー。“おや”がふらふらっとしてちゃ駄目だ――よし、まずは第一歩を踏み出す目標を。私はココの傍へ寄って、しっかりと伝える。
「来年は一緒に花火を見られるように頑張ろうね、ココ!」
 その時夜空に大輪の赤い花火がきらめいて、ココの笑顔を照らしてくれる。直後にお父さん達の歓声さえかき消す大きな音が響いたけれど、ココの返事はしっかりと私の耳に届いていた。