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●姫としもべとプレッツェル #1

 紅茶を飲みほした淡い桃色のくちびるの間から、吐息がほうと白い色をなして立ち上る。浮かべられた表情はどこか安らぎを覚えているよう。召使のアサナギは、彼女にいちばん近い場所でその表情をただただ見つめていた。言葉も視線も奪われつづけているのに気が付いたのは、彼女のすっと通ったまなじりの両目が彼の瞳を焦がしてからのことだった。

 ◇

 ――そんないつかの景色が、ぼうっとしながら伏せていた瞼の裏に映っていた。
 昼下がりの仕事を終えて、アサナギは広間の安楽椅子に腰かけていた。静かに座ったまま揺られるその姿は、そよ風の中の花のように見えた。少し古びた安楽椅子は木の風合いをそのまま生かしたような色味をしている。彼ひとりには広すぎる広間の中、彼の体をそっと受け止め揺りかごのように揺らしながら、絶えずきいきいと子守唄を歌っていた。
 多忙な仕事を終えた今だからこそ体を休めてはいるものの、召使である彼には、昼食を終えてもその余韻に浸っている暇はない。主人であるエルルの食器を下げて洗った後は、洋館中の掃除をして回るのが午後最初の仕事だ。主人と召使のふたりでは使いきれないほどの部屋があるこの屋敷は、一回りするだけでも骨が折れる。そこをはたきやはばきを持って綺麗にして回るとなればなおさら手間のかかることだった。けれども彼が不平を口にしたことなど一度もない。それが愛おしく永遠にとなりにいてほしい主人のためだと知っていたから。

 そして彼はエルルが悠々と時間を過ごせるような配慮を欠かしたこともない。紅茶とお菓子は呼ばれればすぐに持って行けるようにしてあった。カップもティーポットも絶えず純白を保っていて、スイーツを乗せたディッシュは甘い味を引き立てるかのように金の細工をまぶしく輝かせていた。主人が何か物を取ってきてと頼めば、彼女のティーカップから紅茶が消える前には必ず持ってきた。それはこの屋敷の配置から間取り、どこがどんな部屋で何があるのかさえ細かに記憶している彼の研鑽の産物。そんなアサナギを、エルルは有能な人間をたたえるときのように褒め、けれど愛らしい犬を慈しむときのように撫でてやるのだった。その言葉の抱擁にも似たぬくもりが、その指先の真綿にも似た感触が忘れられなくて、アサナギは主人に尽くしつづける。同じごほうびを、次も必ず与えてもらえるように。

「(今日の紅茶はアップルティー、添えるおやつはバタークッキー。砂糖のかけらも忘れずに、と)」

 わずかばかりの時間を安楽椅子に揺られるうちに、鳩時計はもうじき三時を指そうとしていた。それは姫がお気に入りの甘いものを食べて心を癒す時間。何物にも妨害されてはならない、彼女の至福の時間。主人が恍惚に耽るその瞬間を創り上げるのは召使の役目。すぐにでも姫さまの心を満たさなくては。鳩の声が聞こえないうちに彼は席を立った。
 今はひとりきりのこの広間も、じきにうっすらと微笑みをたたえた少女の居場所になる。エルルの長く揺れる睫毛を思い浮かべながらテーブルクロスを整える。つややかな爪を脳裏に描きながら椅子の位置を直し、香り立つ髪を恋しみながら食器を整然と並べる。彼女のための準備が終わるころには、だれもいないはずの主賓席に主人の幻がはっきりと座っていた。
 しわひとつない純白のテーブルクロスは真ん中に青の大きな正方形をひし形に配していて、端は金色をした別の生地で縁どられている。椅子は四つ足で背もたれがついており、クッション部分は血を滴らせたような深紅で満たされている。テーブルの上にはきらきらと輝くディッシュ、ティーポット、カップにスプーン、ナイフにフォーク。それからナプキン。一通りの食器が彼らの主人の訪れを待ちわびていた。
 アサナギの少女のような指先がティーポットの蓋に触れ、それをそっと持ち上げる。彼は開けておいた紅茶の葉っぱの缶を傾けて、口を開けるポットの中に茶葉をそっと入れた。瞬間、お湯に浸してもいないうちから、ほのかな香りが立ち上って鼻をくすぐった。それはまるで、甘い香りをただよわせる花々で彩られた庭を思い浮かべることができるほどの香り。鼻先から体の中へと抜けて、瞼の裏、頭の奥へと訴えかけて、景色を映し出させるような。そんな虚構の庭園の中で優雅に紅茶にくちびるを浸すエルルの姿がありありと思い描けた。この紅茶はエルルが交友関係を駆使して手に入れた、どこか遠方の茶葉らしい。「なかなか手に入らないのよ」主人が子どものように笑っていたのを思い出す。気高い香りを嗅ぐたびに、彼はこれを遠方から自分の元へ貢がせることのできるエルルの高貴さを知る。そしてそんな気品あふれる少女のしもべとして生きることを許された、自分の幸福をも。

(あなたは最高の召使よ。わたしの、最高の召使)

 いつだったか主人が口にした言葉を思い出す。エルルはそう言ってアサナギの髪をかきなでた。まるでちいさな女の子が人形を慈しむときのように。あのときの言葉は、熱を帯びた指先の感覚は、いくら月日が移ろっても忘れることはできない。召使としてそばに仕えることを許してもらえた喜び。それも、最高の召使の名の下に。それは甘美で、思い起こすたびにアサナギの胸をいっぱいに満たす。もっと尽くしたい、すべてを捧げたい――想いが強くなればなるほど、彼の心の中は主人のことだけに支配されていく。他の考えごとなど思い浮かびはしない。抱擁のような主人の言葉は、アサナギの心をその中に包み込み、言葉を織りなす無数のやわらかな糸で縛り上げていた。

 正時を告げる鳩が三度鳴いた。それでようやく召使は我に返ったのだった。恍惚の表情を無理やりかき消す。熱に浮かされたような顔を主人に見せるわけにはいかなかったから。それは正解だった。すぐそこにはもう、彼のものではない足音が、少しずつその音を大きくしながら近付いてきていたから。
 深紅に金色の細工を施した絨毯の上を、細い足がすべるように歩く。早まることも遅まることもない。その足音は、白い素肌がテーブルクロスに触れると同時にふっと消えた。

「ふふ。準備ご苦労さま。さあ、お菓子の時間よ。あなたも座りなさいな」

 彼の整えたテーブルの前で、主人、エルルは笑った。気が付けばいつも思い描いている主人。近くに仕えているのにあまりにも遠い主人。その彼女のしなやかな体を包むのは純白のワンピース。無数のひだがふわりと空気を孕み、腰元から下の色は淡い紫色をしている。スズランを思い起こさせるそれは今にも匂いたちそうだ。くちびるは紅も何も塗っていないのにうるりと瑞々しく、その頬はうっすら朱を差したように色を帯びている。彼女が何をしたわけでもないのに、思わず視線を釘づけにされる。椅子を手のひらで指す腕の動き、言葉を紡ぎだすくちびるの動き。アサナギは熱に浮かされたように彼女の姿を見つめていた。

「た、ただいま、……紅茶を、お淹れいたします」

 見惚れている自分に気が付いて、即座に取り繕う。動揺で指先が震えだしそうだった。けれど手はずはいつも通り。このティーポットの蓋を開け、そこにお湯を注ぎこむだけ――

「ううん。今日は淹れなくていいわ。紅茶よりも、あなたに食べさせてあげたいものがあるの」

 えっ、と召使が聞き返す。それは当然の反応だった。昼下がりの紅茶はエルルの決まりのようなものだ。狂った時計の針をときおり直してやるのと同じように、彼女はいつも紅茶をすすって自分の時計の針を回していた。だから彼女が紅茶を欠かすことはめったにない。めったにないはずのそれが唐突に訪れたこと、そしてその理由が「自分に食べさせてあげたいもの」にあるという状況がすぐには飲み込めなくて、彼は間の抜けた顔で彼女を見つめてしまう。

「わかるかしら。プレッツェルよ。たまには塩味の利いたお菓子も悪くないでしょう?」

 いつの間にか彼女の手の中には見知らぬ長方形の小箱が収められていた。その箱から取り出されたのは、稲穂色の表面に濃い焼き色を持った、いくつもの細長い棒。見紛うことなくプレッツェルだった。親指と人差し指の間にそれを一本挟み取り、彼女は左右にちらちらと揺らして見せる。姫が手に入れたプレッツェルなのだ、味は最初から保証されているようなもの。焦げ色を飾る塩の結晶は一見だけで必ず口の中を喜ばせてくれると分かった。そしてそれは、主人が召使に与えてくれる食事。ごほうびと何も変わらない、生きる幸福を教えてくれる糧。心がうずいて躍り出すのを、彼が抑えこめられるはずがなかった。

「それをわたしも、いただいてもよろしいのですか?」
「ええ、そうよ。――でも、条件があるわ」

 ゆうら、ゆうら。茶色の指揮棒が左右に揺れるたびに、アサナギの呼吸が昂ぶっていく。その表情は次第に隠しきることのできない期待に輝いていく。その表情を楽しむようにしながらエルルは言葉を継いで、指と指の間にプレッツェルを挟んで引き抜いた。そうしてそれを自分の口元へと持っていくと、白い歯をのぞかせながら、片端を口の中へと食んだ。次の瞬間、ふたりを結んだのはエルルの念力で紡ぎだされた心の声だった。

『命令よ。わたしがくわえたこのプレッツェル、そのまま口に入れなさい』

 ◇ 


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