ちりん、ちりりん。
夏の風物詩が、透き通った風の中に清らかな声で歌った。
薄青い空にかすかにたなびく白い雲、生い茂る深緑の手のひら。
太陽の歌を紡ぐセミたちの声、縁側でひなたぼっこをする猫。
ごくありふれた、太陽の照りつける夏の日の風景が広がっている。
ちりん、ちりりん。
風が吹くたびに、風鈴たちは自らの歌を思い思いに歌いだした。
緑の木々を背景にした真っ白な網戸だけを残して開け放たれた窓。
その窓辺で夏風に歌う風鈴たちを見つめながら、少年は背もたれのついた椅子に座って本を読んでいた。
その少年は自分の頭の後ろからひょいと本を覗き込んだチリーンに気づくと、そのチリーンの頬をそっと撫でてやった。
ちりん、ちりりん。
チリーンは、どんな風鈴にも負けないような透き通った玻璃色の声で歌いながら、大好きな主人に甘えてすり寄った。
― 『ふうりんのうたうとき』 ―
夏風の中、たくさんの風鈴が窓辺で歌っています。
私はチリーン。春にも秋にも、そして冬ですらも、年中風鈴を聞くことが大好きなご主人様のもとで、いつも大切にされて暮らしています。
「チリーン。おはよう」
ご主人様は、自分が太陽よりも早起きの日でも眠そうに目をこすって起きてくる日でも、必ず笑顔で挨拶してくれます。
ご飯を食べるときも、本を読むときも、ゆっくり眠るときも、ご主人様はどんな時でもいつも一緒にいてくれます。
それから、毎日私を膝の上に乗せて、ほっぺたを撫でてくれるご主人様。
そんなとても優しいご主人様に大切にされている私は、ご主人様と一緒にいられること、それだけでしあわせを感じていました。
そうやって毎日のようにご主人様の温もりに包まれていた私は、不自由どころかたくさんのしあわせと一緒に、ご主人様のそばで暮らしていました。
――そんなある日のことでした。
「この風鈴、良いよね」
ご主人様は新しく買ってきたらしい風鈴を、窓枠に引っ掛けつつ呟きました。
私はその言葉に胸の高鳴りを覚えました。
ご主人様の視線は、完全にその風鈴に集中しています。いつもは私だけを見ていた視線が、今は違う。
その風鈴が、いつもは私だけを見てくれているご主人様の視線を奪っている。
そう考えるたびに、鼓動はどんどん高鳴ります。自分自身のことなのに、よく分からないおかしな感覚でした。
――そのとき私は、これが人間の言う“嫉妬”なのだと知りました。
「この色遣いとか、音とか。買ってよかったと思うんだ」
ご主人様はその風鈴の歌声に耳を済ませながら、独り言のようにまた呟きました。
私はその言葉に、もう一度窓際に掛けられたばかりの風鈴を見つめます。
その風鈴は、悔しいけれども確かに、ご主人様ご自身がその姿に惹かれて選んだだけのことはありました。
施された彩色はたった数本の線。それでもその彩色は、控えめながらも確かに煌いて自らを主張していました。
声は玻璃のように透き通った声で、この部屋に誰よりも清らかな声を響かせています。
――強く、自分を狂わせてしまいそうなくらいの、“嫉妬”を感じました。
ご主人様は、風鈴を窓枠にかけてからずっと、その風鈴を見ています。
「私ではダメですか」という疑問と嫉妬が、ご主人様と風鈴を交互に見つめる度にこみ上げてきます。
ご主人様、――私を、私だけを見つめてください――
ご主人様が綺麗な色遣いを欲するなら、美しい声を欲するなら、私はそれに応えますから、どうか――
私はようやく風鈴からご主人様が離れたところで、窓枠からそっと風鈴をはずし、部屋の鏡台へと向かいました。
私はその風鈴に描かれた色遣いを真似て、たどたどしい筆遣いで、一箇所の狂いも無いように出来るだけ繊細に、自分の顔にその風鈴と同じようなお化粧を施しました。
ご主人様は、その風鈴の姿や声がたまらなく気に入った、そう思ったのです。
お化粧だけではなく、その風鈴のような高く清らかな声で歌うことも、試してみました。
でも、ご主人様は私の方よりも、買ったばかりのその風鈴の方に目が行っているようなのです。
幾ら繊細なおめかしをしても、幾ら目一杯に出来る限りの清らかな声で歌っても、ダメでした。
何が私に足りなくて、どうして新しい風鈴の方ばかり見ているのか、気が気ではありません。
私の面倒は、いつも通りに見てくれます。楽しいお話もしてくれます。
でも話し終わってしまうと、気がついたら、ご主人様の目は窓辺で歌う風鈴に向いているのです。
急にご主人様が、私のことをあまり構ってくれなくなってしまったように感じました。
そして、今まで私のことを大切にしてくれていたご主人様が、急に違う人と遠い世界に離れていってしまったように思いました。
じゃあ、私は……? 独りぼっち、なの……?
私は、努力不足なのだと悟りました。
もっと綺麗なおめかしをして、もっと綺麗な声で歌って……
それに、私はあんな風鈴と違って、「風」が無くたって、歌える!
そう、あなたなんかよりも私の方がご主人様に相応しい風鈴です!
でも、ご主人様は私の意に反して、静かに仰ったのです。
「――なんか最近、お前らしくないよ。なんて言うか、無理してると思う」
私が死に物狂いでご主人様に相応しい風鈴になろうとしていたある時、ご主人様は悲しげな苦笑いをして、私の瞳を見つめながら仰いました。
ご主人様の瞳に映りこむ私、その小さな私の瞳に映りこむご主人様、その繰り返しの合わせ鏡。
今までとは比べ物にならないくらいに、鼓動の高鳴りが厭というほどに感じられました。瞳の鏡に映る私が、だんだん、ぼやけながら激しく揺れ動いて見えました。
どうして? 私はご主人様に、今まで通りにしてほしいだけなのに。
笑わせてあげたくて頑張ったのに。苦笑いなんて見たくなかったのに。
ご主人様が大好きで大好きで、仕方がないだけなのに。
そう思ったら、嫉妬どころではないたくさんの感情がこみ上げてきて、……
いつの間にか、自分の瞳から熱い雫が零れていくのを感じました。
――私は耐え切れずに、部屋を飛び出しました。
私は飛び込んだ部屋のベットで、嗚咽を漏らしました。
悲しいというのか、悔しいというのか、何と言えばよいのか分からない感情に駆り立てられて、私の瞳はただぽろぽろと涙をこぼし続けました。
何故ですか? 私は、こんなにも頑張っているのです。あなたに相応しい風鈴でいられるように、と。ただ、ご主人様と今までどおりに一緒にいたい一心で。
なのに、何もせずともご主人様に見つめられている風鈴が、憎らしくて、妬ましくて。
何故ですか、ご主人様。
ご主人様の傍にいたいだけなのに、どうして?
頭を駆け巡る、ご主人様の、笑顔、えがお、エガオ――