「……リ……ン……
……リーン……チリーン?」
誰かが私の名前を呼びながら、小さな私の体を揺り動かしました。
でも、私の名前を呼んだのも体を揺らしたのも、いつも私が体に浴びている、あの窓辺を吹き抜ける風ではありません。――ご主人様でした。
ご主人様の私を揺り起こす手と声とで、私は静かに目を覚ましたのでした。いつしか泣き疲れて、眠ってしまっていたようです。
ちりん。ご主人様の手に、私は弱弱しい調べを奏でました。
ああ、いつもと変わらない、あたたかくてやさしい手のひら。私はどうして独り眠ってしまっていたのかも忘れ、ただご主人様の手に撫でられていました。
けれどよく思いだしていくと、私は悔しくて、悲しくて涙を流したのでした。――ご主人様が、私の方を向いてくれないから。
そんな嫉妬のあまり、思わずご主人様にブスッとした態度をとってしまいました。間違っていることなのに。ご主人様は苦笑いをしています。
そんなどこか悲しげな笑顔に、とっさにいつもの私に帰るや否や申し訳ない気持ちで胸が締め付けられて、言葉もなく頭を垂れました。
どうやらご主人様は私が突然涙を零しながら部屋を飛び出したのを見て、しばらく私をそっと眠らせておいてくれたようでした。
見れば時計の針は傾いていて、もう昼下がりの時間を過ぎていました。夏の暑さも私のほとぼりも、少し落ち付いたようです。
「いったい、どうしたんだい? この頃お前が普段とは変で、いつも心配してるんだ。さっきも泣いて部屋を飛び出したし……」
ご主人様は、その手のひらで私のほっぺたを撫でながら言いました。
そこにいたのは、私のことを心配してくれるいつものご主人様。普段と何も変わらないご主人様が、戻ってきてくれたのです。
苦しくて、苦しくて。ご主人様のいない世界なんて、考えられません。私は胸の締め付けを緩めるように、今まで無意識のうちに感じていた嫉妬心を素直に打ち明けました。
快く思わない顔をされることも覚悟していました。けれどご主人様は、黙って私を胸元に抱いてくれました。
――ああ、久しぶりのあたたかさ。いつもそばにあったはずなのに。私はそのぬくもりを、ずっと感じていました。
「なんだかお前らしくないと思ってたんだよ。でも、嫉妬してたなんて気付かなかったんだよ。ごめん、本当に」
ご主人様は私を両手に抱きかかえると目の前へと浮かばせて、頭を下げました。
ご主人様は何も悪くないのに。そんな罪悪感と、自分のことを気付いてもらえた喜びがない交ぜになって、いつの間にかまた雫が零れてゆきました。
左のほっぺたにやわらかな手のひらを感じました。ご主人様は私のほっぺたをやさしく撫でると、「大事なことだから、聞いてほしい」と囁きました。
いつになく真剣な顔をしているご主人様に、溢れ出る涙をぬぐって、私も真剣な面持ちでご主人様の瞳を見据えます。
「あの風鈴に負けたくなくて、……誰よりもボクのことを思って、あの風鈴のような色を真似して塗ったり、無理して声を真似たりたりしたんだろう?」
何から何まで全て図星。やはり私のご主人様は、私のことを全て見抜いていました。それくらい、ご主人様はやっぱり私のことを分かってくれていたのです。
私は恥ずかしさと悔しさ、情けなさと申し訳なさ、沢山の感情に打たれて、必死に唇をかみ締め、震える身体でコクリと頷きました。
笑ってもいない、怒ってもいない、ただ私だけを見据えるご主人様の視線に、私の弱弱しい体は今にもちぎれてしまいそうでした。
「確かに、ボクはあの風鈴の色遣いも音色も好きで、だからあの風鈴を眺めてたし、耳を澄ませてた。
でもいつだって、そばにいてくれるお前のことを忘れたことなんて無かったよ。可愛い笑顔を見せてくれるお前の代わりなんて、ありはしないから。
誰もお前の代わりにはなれっこない。だからボクは、無理せずに飾らないお前が、一番『お前らしい』と思うんだ」
ご主人様が片時も私を忘れていなかったということが分かって、全身の力が抜けていくような思いでした。けれど直後、もうひとつのことに体が強張りました。
「お前らしい」。私らしいって、何?
無理をしないで、飾らないで、自分の持っているものをありのままにさらけ出す。それが、「私らしい」?
私は今までのことをゆっくりと思い浮かべる。私があの風鈴のように振舞ったのは、自分が自分らしさに気付いていなかったから、そういうことなのですか?
その時になってやっと分かったのです、ご主人様は「急に人が変わって、違う世界に行ってしまった」ようになどなっていなかった、と。
そしてそんな風になって、大切な人の前から離れて行ってしまっていたのは、ほかでもない、私自身だったのだと。
ご主人様は、私がご主人様の知らないところで焦燥に身を焦がしていた間にも、いつも私のことを大切な存在として見つめてくれていたのです。
私にとっても、ご主人様は大切な唯一の存在でした。だからこそ、私は気付かないうちに「私」を棄ててまで、ご主人様から離れないようにもがいていたのでした。
けれどそうやって近くにいようと無理してもがけばもがくほど、私の想いとは裏腹に、ご主人様から離れてしまっていた。
そのことにようやく気付いたその時、私はその事実にずたずたに打ちひしがれて、自分でも情けないくらいに止めどない涙をボロボロと零しました。
悔しさや悲しさというより、そんな負の連鎖の中でもがいていた私があまりに情けなくて、情けなくて仕方がなくて。
けれどご主人様は、そんな私でさえもやさしく包み込んでくれたのです。
ご主人様は私の瞳から零れ落ちたたくさんの涙をぬぐうと、またその手のひらで私を撫でてくれました。
もう、どうやって感謝の気持ちを述べたらいいのか分からなくて、私はどうすることもできません。
とにかく、この涙をぬぐってくれる手があるのだからもう泣いてはいけない、と思い、私はもう一度涙をぬぐってご主人様に向かってにっこりと笑ってみました。
ご主人様も、とびきりの笑顔で、私を見つめてくれています。――他に、何を望めというのでしょう。十分すぎるくらいです。
「なあ、風鈴って、風がないと歌うことはできないだろう? 風という助けがあってはじめて音を響かせられて、風鈴という自分の良さを知ってもらえる。
ボクたち人間だって、それと同じことさ。誰かの助けがあってこそ、初めて自分の個性を生かせるんだ」
ご主人様はぬぐった私の瞳を見つめて、そう囁きました。
私が私の歌を歌えるのは、ご主人様の言う「風」のおかげ。
なら、私の風はだれ? ――それは紛れも無く、私の、大切なご主人様。ご主人様のおかげで、私は私の歌を歌える。
「私は普通の風鈴とは違う、私はチリーン。だから私は風なんて無くたって、私の歌を歌える」――今までずっとそう思っていたことは、とんだ思い違いでした。
「だから、これからもボクの傍でずっと、ずっと、歌っていてくれないか?
――飾らないお前が、ボクは一番好きだ」
ちりん、ちりりん。
窓辺に、別の風鈴が歌声を紡ぎました。私が、口にしきれないたくさんの想いを胸の中に感じているうちに。
ご主人様に伝えたいことは数え切れないくらいたくさんありましたが、それは全て私の心にとどめておくことにして、私はとびきりの笑顔を咲かせながら、ご主人様のあたたかな腕の中に飛び込むだけにしました。
たくさんの想いは、言葉にしてご主人様に伝えるにはどうしても恥ずかしかったのです。なにより、口にしなくても、きっと通じ合っているでしょうから。
ちりん、ちりりん。
私は窓辺に歌う風鈴に負けないように、けれど今度は確かに自分だけの歌を、たくさんの愛と誇らしさをこめて歌いました。
――ご主人様。これからも、「ご主人様」という風に包まれて、歌い続けても構いませんか?
− おわり −