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初版公開:2014年9月5日


●紅の味

▼ 作:黒戸屋 さん

 じわりじわりと、空が宵闇に食われていた。昼間はやかましい蝉たちも声を潜め、生暖かい風が頬を撫ぜる。
 毎年訪れる、うだるような夏の夜。
 しかし、今日は違った。
 普段は闇に染まる境内は、鮮やかな光が舞い、賑やかな音楽に満ちている。人間たちは、待ってましたと言わんばかりに和装に身を包み、彼ら自身が花になったかのように彩られていた。
 その手に握られているのは、小さなビニル袋で泳ぐ金魚であるとか、ぽんぽんと弾むヨーヨーだ。
 誰もが、満たされている。非日常を心から楽しむ笑顔が、この場所に溢れていた。

 まったく、忌々しい。いつにも増して忌々しい。僕は本殿の影に潜り込み、人間たちの光に背を向ける。
 いつもは、この神社に来ないくせに。
 いつもは、誰も僕のことを見てくれないくせに。
 丸まって、音からも逃げようとした。それでも、楽しげな声は隙間からするりと滑り込んで、僕をますます苛立たせる。
 ああ、夏祭りなんて嫌いだ。
 湿気た空気が鼻先に纏わり付く。賑やかな空間の中、僕だけが独りぼっちだった。

 そう、思っていた。
 がさり、と、草が揺れる音がした。僕ははっとして身を隠す。
「誰かいるの?」
 幼い声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。
「ああ」僕はほんの数秒迷って、立ち上がった。「残念ながらね」
「あら……こんばんは」
 白と朱の、金魚の様な色使いの浴衣を着た少女は、驚いた様に目を丸くして、すぐににこりと笑った。
「どうしてこんなところにいるの? 今日はお祭りの日なのに」
「お祭りの日だから、だよ」
「楽しくないの?」
「楽しくないよ」
「そんな格好なのに?」
 少女は首をかしげる。視線の先の、僕の格好。橙色の甚平に、狐の面の少年の姿。
「特別な日だからね」
「そうなの?」
「そうだよ」
「特別で、お祭りの日で、そんな格好なのに、楽しくないのね」
 変なの、と、くりくりの瞳を細めて、彼女はまた笑った。
「ね、座ってお話ししましょ」
 そう言うと、少女は浴衣が汚れるのも構わず座り込む。僕は二、三、何か言おうかと思ったが、諦めてその隣に座る。
「ここ、静かね」
「僕にはまだうるさいぐらいだ」
「そうなんだ。……でも、一緒に騒いでみたら、気にならないかもしれないよ?」
 僕は首を横に振る。
「僕は人前に出るのは好きじゃない」
「そうなの?」少女はまたくりくりの瞳をこちらに向けてくる。「てっきり、好きなのかと思ってた」
 僕は一瞬驚いて彼女を見た。少女はいたずらっぽく笑って、僕の顔を覗いている。
「君は、特別だから」ため息をつきながら、僕は言った。「君が持ってくるお菓子は、好きだったからね」
「それなら、良かった」
 見透かすようにくすくす笑う声が、なんだか悔しいような、恥ずかしいような気がした。でも、それは不思議と心地良い。
「それじゃあ、今日はこれ、あげる」
 そう言って差し出されたのは、紅い大きな玉が刺さった棒。これは、夏祭りで良く売っている――
「りんご飴。お祭りに行かないなら、食べたことないでしょ?」
 ぴかぴかと光るそれは、まるで紅い宝石のようだ。
「ありがとう」
 僕は受け取って、今まで眺めることしか出来なかったそれを、恐る恐る囓ってみる。
 かり、と堅い感触がした。甘い甘い、殻のような飴を食い破ると、しゃり、と甘酸っぱい、さわやかな味が口いっぱいに広がる。
「おいしい」
「でしょう?」少女は笑う。「他にもたくさんおいしいお菓子が売ってるのよ」
「そうか……それは、勿体ないことをした」
「ふふ。そうでしょ、そうでしょ」
 少女は、嬉しそうに、得意げに言った。
「だから、一緒にお祭りに――」「それは、駄目だ」
 僕は反射的に、ぴしゃりと言ってしまった。
「そっか、残念」
 しまった、と思ったが、少女は少し悲しそうに笑って、黙り込んでしまった。

 会話が途切れて、向こう側の喧噪がまた聞こえてくる。
 ああ、彼女と話している間は、あの煩わしさを忘れられるのか。
 僕は思わず苦笑した。
 言葉のやりとりに頭を使わないと、あの寂しさが押し寄せてきそうだった。
「ねえ、あのね――」
 隣の少女が口を開き掛けたとき。

 どん、と低く響く音がした。

 同時に、僕と少女は夜空を見上げる。
 紺に塗りつぶされた空に、鮮やかで、儚い大輪が咲いては散っていた。
「花火!」
 少女が歓声を上げる。嬉しそうに空を見上げるその顔が、今までで一番輝いていて――僕は無性に悔しくなった。
「どうしたの、そんな怖い顔をして」
 僕の様子に気付いた少女が心配そうに尋ねる。
「花火は……嫌いなんだ」
 夏祭りが嫌いだった。その中で、一番花火が嫌いだった。
「花火が終わると、みんな帰って行くから。こんなに賑やかなのに、こんなに楽しそうなのに、みんなみんな、花火が終わると帰ってく」
 毎年毎年、同じように。寄せた波が、引いていくように。
 花火の後には、夏祭りの後には、独りぼっちの僕だけが残る。
「だから、花火も、夏祭りも嫌いだ」
 僕の吐露を、彼女は黙って聞いている。いや、返事に困っているのかもしれない。
 少しの沈黙の後、少女は意を決したように口を開いた。
「ねえ、あのね。私、もうすぐこの街から引っ越すの」
「……そう」
 そのことは、知っていた。風は様々な噂を運んでくる。良い噂も、悪い噂も。もちろん、少女の父に、転勤が決まったことも。
 でも。
「だから、あなたも一緒に来ない?」
 彼女の言葉は、意外過ぎた。
「私のパートナーとして」
 心に秘めた思いは、風も運べないから。
「ね、一緒に行こう?」
 なんて馬鹿なことを言うのだろう。なんて愚かなことを言うのだろう。
 しかし、その黒い瞳は、一欠片たりともおかしいとは思っていない。僕と共に行きたいと、本当に思っている。
 じわりと胸の底から熱いものが湧いてくるようだった。それは、胸の底から、喉の奥へ、登って登って、目から溢れてしまいそうで。
「ありがとう」
 僕は、込み上げるものを堪えながら続ける。
「でも、僕はここから離れることは出来ない。僕は、この街を守らないといけないから」
 どんなに寂しくなっても、悲しくなっても、それは、結局僕はこの街の人間たちが大好きで、愛おしいから。
「……そっか」
 少女は視線を地面に落とす。
「ごめんね、変なこと言って」
「いいや。……ありがとう」僕は手を伸ばして彼女の頭を撫でる。
 うふふ、と少女の口から、笑いがこぼれた。
「いつもは私が撫でる方なのに」
「そういえば、そうだね」
「でも、とうとう尻尾は触らせてくれなかったね」
「当たり前だろう。聖なる者の尻尾に触れようだなんて罰当たりな」
「……でも、あんまりそんな感じしないね」
「まあ、神としては若造だからな」
「六本しかないもんね、尻尾」
「むっ……すぐに増えるさ」
 心外に思う僕を余所に、ふぅん、と少女は鼻を鳴らす。
「ね、りんご飴、一口ちょうだい」
 彼女が突然ねだる。「僕に渡す前に食べれば良かったのに」僕は言われるまま、紅いりんごを少女の口元に差し出す。
 かり、と小さく囓る音。飴に触れた彼女の唇が、紅を引いたように染まる。
「おいしい」
「君のくれるものは、なんでもおいしいから――」

 僕はそう言おうとして、なにか、柔らかいものに口を封じられた。

「最後の贈り物。なんてね」
 うふふ、と笑い声が聞こえる。
「もう、遅くなっちゃったから。私、帰るね」
 ぱっと、飛び出すように立ち上がる。「さよなら、小さな神様」そう告げる彼女の瞳は、心なしか潤んでいた。
「ああ」僕は、絞り出すように。「さようなら」震えそうな声を押し隠して、別れを告げた。

 みんなが楽しそうな夏祭りが嫌いだった。
 楽しそうなみんなを帰してしまう花火はもっと嫌いだった。
 でも、大好きな人を連れ去った今年の夏は、今までも、これからも、一番嫌いな夏だろう。

 最初で最後の口づけは、甘い甘い、りんご飴の味がした。