●眠れぬ夜の召使
薄青いタオルケットにくるまって、きゅっとそれを引き寄せる。それが何色か分からないほど部屋は暗くて、かろうじて何か色を持っていることを月明かりが教えてくれた。もぞもぞと布でできた繭が動く。窓から差し込むその光に青白く照らされて、アサナギは息をついた。
眠れない夜は久しぶりだった。少なくとも召使になってから、こんな夜は数えるほどしか思い出せない。召使として、毎日必ず主人のエルルが眠るのを見届けてから自分も眠りについた。夢の世界へと向かう愛しい主人の笑顔。おやすみ、と言葉をつむぐ、やわらかな桃色のくちびる。それを目に焼き付けられるから、毎日心おだやかに眠ることができる。――はずだったのに。
ほう、ほう。どこかで夜の鳥が鳴いている。夜の帳が降りてからもうずいぶん経つ。
陽射しの名残のあたたかい空気はとっくのむかしに消えていた。草木も静かに眠りについて、世界は冷たい夜風に包まれている。静かな、静かな夜だった。
「姫、さま」
無意識のうちに声にしていた。だれも聞くことのない、ひとりきりの部屋。自分以外、からっぽの部屋の中、黒い影がゆらりとうごめく。上体だけを起こして、美しい月を見た。
いまごろ姫さまは何を夢見ているのだろう。心やすらぐ夢を見ているのだろうか。それとも、怖い夢を見ているのだろうか。夢の中でもいっしょにいられたら、これほどうれしいことはないのに。いつだって姫さまの召使になってあなたを守りたいのに。思いをめぐらせればめぐらせるほど、月の光に視線を絡めるふたつの目は冴えわたった。
こんな夜は、決まって一日の出来事が早回しになって蘇ってくる。主人の、エルルの姿が自然と浮かび上がる。あくびをする主人、伸びをする主人、眠たそうな主人。パンケーキを口に運ぶ主人、紅茶を飲む主人、笑う主人。おいしいものを口にしているときは本当にしあわせそうな表情をする。シャワーを浴びたあとの濡れた髪は心が乱れるほど妖艶だし、うとうとしながらソファの上で丸くなる姿は自分の立場を忘れて抱きしめたくなるくらい。主人が見せる一瞬一瞬に立ち会えること、それは召使として生きるアサナギの最大のよろこびだった。
月光から視線を外し、もう一度体を横たえる。寝返りひとつ打ってみても、眠れそうな気がしなかった。いつもならゆりかごになって夢の世界へといざなってくれる月明かりも、今宵はアサナギの胸を乱す揺波になるだけで。
瞼を閉じればすぐにでも思い描ける主人の姿。夢を見ながら眠る朱の差したその頬を、そっと撫でてあげたい、そんなことを想う夜。「姫さま」今度は想いをこめて、つぶやいた。
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夜なき亭
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